2009年08月29日

ヒロシマ・ナガサキ二重被爆

広島と長崎での原爆被爆の死線をくぐりぬけそれから90歳を迎えるまでの著者の手記です。著者は三菱造船所の設計技師として赴任先の広島で被爆し、重度の火傷を負いながらも命からがら戻った長崎でも間もなく被爆します。その状況とその後の人生を巧みな筆致で描いています。

長崎の裕福な家庭に生まれ育った著者は幼くして貧困とは無縁の生活でした。外国交易の盛んな長崎ならではの英語教育も当時としては学ぶことができ、それがその後の人生に大きく影響します。しかし、子供時代に父の放蕩に悩んだ母の自殺、そして少年時代の家業の破綻などによって著者の人生は大きく変わります。当時は日を追うにつれ軍国主義の色合いが濃くなる世の中でした。青年時代の著者は自由闊達な気風だけに、自由が制限されていく風潮を敏感に感じていました。同時に、家業の破綻によって著者には退学が迫られていましたが、自分で学費を稼ぎながら勉強していくことになるのです。

卒業すると三菱重工において設計技師として働き始めます。三菱重工を擁する長崎港は軍港として戦艦武蔵や土佐を建造するなどの軍需産業の主要拠点でした。当時多数の男性技術者は兵士として徴用されていたため、著者のような若手技術者も設計の第一線に出ざるをえず、主に商船や客船の設計に携わっていたそうです。そんな著者にも鉄不足による船舶の軽量化や強度の簡略化、また入港する破損した軍艦の増加や民間船の減少は、戦況の悪化を感じさせるには十分でした。

1945年になる頃には深刻な技術者不足で徴用は免れたものの、全国の造船所を飛び回ることになるのです。そして8月6日、著者は2人の長崎からの技術者と共に広島の朝を迎えるのです。原爆投下前の広島市は空襲の被害もそれほど無く、静かで平穏な都市だったといいます。

広島でのその朝はちょうど著者が長崎への帰途ため挨拶まわりに行くバスに乗る予定でした。同じ他の者は予定通りバスへ乗り込みますが、著者だけは時間に遅れ1便乗り遅れ、会社内で待っていることにしていました。それが著者の生死を分けたといいます。その瞬間は青白い閃光と共に膨張する大火球を著者は目撃したそうです。猛烈な爆風と熱線が著者を襲い気がついた時には、全身に重度の火傷を負い皮膚が溶けて垂れ下がっていたといいます。しかしそれでも痛みは感じず、全身が麻痺しているように感じ、自分がどのくらい傷を負っているのかさえ分からない状態だったといいます。生き残った職員たちと避難の際に見た広島の状況は言語に絶するものだったといいます。爆心地付近では死体すらなく蒸発したと分かる人影だけが残り、白骨と遺体がそこかしこに散乱していたといいます。特に防火水槽や川には遺体が折り重なるように積もり、著者はそれを人間の筏と表現しているほどです。

遺体を掻き分け命からがら救護列車で長崎へ着いたのが8月8日でした。家族はその変わりように著者を判別できないほどだったといいます。火傷には大きな水ぶくれができており、それを割るとまるで水風船を割ったように大量の液体が流れたといいます。8月9日、著者はまだ起き上がるのもやっとの中、広島が壊滅したことを知らせるために会社にいました。しかし、広島での新型爆弾を話せば話すほど、当時としては現実からかけ離れすぎていて上司すら信じられない様子だったといいます。

そんな中の11時2分。著者は会社の事務所で窓の外からの青白い閃光が再び自分の辺りを包む様子を目のあたりにし、とっさに広島での経験から机の下に身を潜らせたといいます。その瞬間も猛烈な暴風と熱線でした。幸い著者は長崎原爆での負傷は少なかったといいます。もう一人広島で被爆した同僚は、長崎港に着いた途端のことでした。その瞬間同僚も同じく埠頭から海に飛び込んで生き延びることができたといいます。しかし、広島に続いて長崎においてもその壊滅的な被害はご承知の通りです。幸い著者やそのご家族は無事であっても、時爆心地周辺にいた者は体内に多量の放射線を浴び皆同じく、その後は原爆症と呼ばれる様々な病気に悩まされることになるのです。

戦後、設計技師としての職を失った著者は学生時代に学んだ英語力を生かし、進駐軍の通訳や英語教員に職を得ます。印象的なのは、進駐軍との付き合いの中でそれまでアメリカ憎しの著者ですが、個々の兵士たちとの交流で決して敵国であってもその国の個々の市民それ自体が悪ではないということを知ったことです。

通訳や教師を転々としながら最終的に落ち着いたのは再び三菱の嘱託職員でした。嘱託でしたが、食べるのに精一杯という生活の中では仕事が選べる状態ではなかったといいます。幸い著者は労働組合の代表にもなり70歳ほどまで三菱の職を得ることができたといいます。

それまで被爆体験を語ったことは無かったそうですが、きっかけとなったのがドキュメンタリー映画「二重被爆」でした。それ以来国連軍縮会議での演説や本書など、残されたご自分の体験を語り継ぐ活動を行っているということです。著者はことわざにある、「二度あることは三度ある」を繰り返してはならないと訴えます。広島と長崎での被爆後、世界は軍拡競争を行い今や広島型や長崎型と呼ばれる、当時の原爆の何百何千倍という威力を持った核兵器が造られています。核兵器それ自体も世界各国に分散しそのたびに著者は忸怩たる思いにかられるといいます。今年、オバマ大統領が演説において核軍縮について述べました。被爆地ではそれに大きな希望を持ったといいます。長崎原爆記念式典では、オバマ大統領に期待を寄せる平和宣言が述べられました。

抑止力として存在する世界各地の核兵器。それは核による均衡や一時的にせよ平和をもたらす機能を持つものです。誰もが核など持たない世界が良いにはきまっています。しかし、現実として理想を国家間の外交や安全保障に持ち込んだ場合、それが揺らいでしまうという悲しい現実もあります。右派とて核なき世界こそ理想なのはもちろん分かっています。しかし、核によって隣国を脅かす国家が現実に存在している。その現実を前に核なき世界という崇高な理想はどうしても揺らいでしまうのが事実です。求める理想は左派も右派もつきつめれば同じです。ですが、現東アジアにおける核による不穏な緊張が高まる今、核なき世界という理想に大きな壁が立ちはだかっているように思います。

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posted by hermit at 18:07 | 回想録(本)
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