2009年11月27日

【歴史の闇】ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」@高瀬毅

日本は唯一原爆によって被爆した国です。それは広島と長崎。しかし、世界で知られる被爆地のイメージとしては広島がほとんどです。それは世界遺産ともなった広島原爆ドームの存在が大きいでしょう。しかし、長崎にはそういった象徴的被爆遺構のモニュメントはありません。しかし、かつて広島原爆ドームと並ぶ象徴的な建物がありました。それは浦上天主堂です。原爆を落下したアメリカの多くの人がキリスト教信者です。もし、そんなアメリカやキリスト教を信仰する人たちが、被爆し無残に崩壊した浦上天主堂を見たとしたら、広島原爆ドームを凌ぐほどのインパクトがあったでしょう。しかし現在それはありません。市民の訴えも虚しく天主堂は撤去され再建されてしまったためです。当時、浦上天主堂は市によって保存することになっていました。しかし、ある時点を境に市長の態度が180度方針転換し撤去が決まってしまいました。そこには日米の隠された闇があったのです。著者はこれを丹念に取材し、限りなく真相に迫っています。

【昔、そこに天主堂の廃墟があった】

長崎市。松山町。電車の軌道と並行するように、幹線道路が市の南北を貫くように走っています。道路に面して公園があります。町の人たちは「松山公園」と呼びますが、「原爆落下中心公園」が正式名称です。公園には高さ5メートルほどの一本の黒御影石の標柱が立っています。それは原爆が投下された場所、正式にはその地上500メートルの高さで原子爆弾が爆発した場所、グラウンドゼロを指し示す場所です。そこから10メートルほどのところによく見ると赤黒いレンガ壁の一部があります。それが残された被爆天主堂の壁の一部です。

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原爆落下中心碑

長崎原爆でもっとも被害が大きかったのは浦上地区です。そこは皮肉にも日本のカトリックの聖地ともいわれる場所でした。著者が浦上天主堂に関心を抱いたのは、NBC長崎放送の「神と原爆」というドキュメンタリーでした。番組を見た著者はキリスト教信者でこそないものの何者かに打たれたような衝撃を受けました。無残に崩れ落ちた教会と残された一部の壁。顔の半面が黒く焼けたマリア像や、イエス・キリストの使徒たちの像。首が吹き飛んだものもありました。なんという痛ましく無残な風景であったとしています。

そして著者は思います。なぜ被爆した浦上天主堂は取り壊され、広島には原爆ドームが残っているのか。同じ被爆都市でありながら、被爆体験をシンボライズする遺構が残されなかったのか。その疑問が大きく膨らんでいきます。著者は被爆天主堂の資料を探し、苦労してその様子を撮った写真を見ることができました。

「丸窓のアーチ型の入り口の向こうには、まだまだ復興には遠い町の風景が覗いていた。悲しみのマリアの右半分は刻印されたかのように黒く焼け焦げていた。頬の左から左目にかけてえぐり取られたような天使像の可憐な顔。鼻筋が通り、形のいい唇がかすかな笑みを浮かべている。顔の上部が吹き飛んだ聖像、立ったまま首から上がまったくない福音史家・聖マルコ像、顔も体も、3分の2が黒く焼け焦げてしまったキリスト像・・・。」この写真を撮った方はこう思ったそうです。「初めて浦上天主堂の廃墟の前に立った私はおそろしい原爆の爪痕をこの目ではっきりと見た。そして言いようのない怒りが次から次へとこみ上げてくるのをどうしようもなかった」

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現在の浦上天主堂に残る被爆聖人像

そして疑惑の始めはこれら58年(昭和33)被爆した天主堂の資料や写真を収蔵していた市役所に、火災が起こったことです。これによって原爆資料の多くが消失してしまうのです。午後9時35分頃の出火だったといいます。原因は判然とせず、これは後述しますが、長崎市と姉妹提携したセンとポール市から贈られた「平和のパイプ」や「友愛のカギ」などは何故か無事だったのです。それは天主堂の廃墟の取り壊しが行われていた矢先の出来事で、まさに被爆の遺物が大量に消されていった時期と重なるのです。著者が見た資料は幸いにも残った一部でした。そういった歴史を知り、ついに著者が疑惑を確信した証言を得ることができます。

それは老齢の関係者が話してくれた衝撃的な言葉でした「遺構の取り壊しに関して、あるところから巨額の寄付金が来たんだよ。事実あれを残していたらアメリカが困るんだ(遺跡を)この世から抹殺する力が働いた」寄付金とは教会に対するもので、教会を建て直すという条件がついていたらしいのです。だがその寄付金がどのような組織、団体からのものかは分からなかったといいます。

【弾圧を耐え抜いた浦上の丘】

現在天主堂

〔浦上天主堂の歴史〕

原爆で破壊される前の天主堂は、高さ25メートルの双塔の鐘楼をもつ東洋一といわれた教会でした。1895年(明治28)に着工し、30年の歳月をかけて1925(大正14)年に完成しました。大きなクボラ(円天井)のある、石と煉瓦造りの純然たるロマネスク様式でした。それは14世紀の初葉にかけて、ヨーロッパのキリスト教団で隆盛を極めた建築様式でした。84体の天使半身像、33体の獅子、14体の聖者石像を外壁に配置してありました。天主堂の完成は、浦上の信者にとって、ことのほか喜ばしいものでした。天主堂が建てられた場所は、江戸時代から明治時代初期にかけて、信者たちを迫害、弾圧するための「絵踏み」が行われた庄屋の跡地だったのです。

キリスト教が入ってきたのは1567年頃といわれます。浦上村でも布教が行われました。1584年、領主でキリシタン大名の有馬晴信が勝利を感謝するため、浦上をイエズス会に知行地として寄進しました。しかし、江戸時代徳川幕府は1612年禁教令を発布します。宣教師たちは追放されてしまいました。ここから260年間キリスト教に対する弾圧が続くのです。それでも信者たちは、いわゆる「隠れ」として、ひそかに信仰を守り通していきます。そこで浦上村全村を団結させ、信仰を守り、伝えていくための“地下組織”が作られます。教義を伝承し、暦によって行事などを行う「帳方」、帳方から伝えられた教義や祝日などを信者に伝える役目として「水方」を設けました。その「水方」からの情報を、一人ひとり流すが「聞役」なのです。幕府のほうは寺請制度によってキリシタンを監視していました。葬式や埋葬も僧侶が立ち会わなければなりません。しかし、キリシタンたちは、僧侶が読経している隣室でお経消しの祈りを唱えていたといいます。棺中の死体も僧侶に背を向けるように納めておく。僧侶が帰ると棺をあけて、頭蛇袋、六文銭などを取り捨てて葬りなおすようにしていたそうです。それでも浦上は4度に渡る検挙事件、いわゆる「崩れ」が起きています。最初は1790年、2度目は1839年、3度目は1856年、そして、1867年の「浦上四番崩れ」は凄まじい弾圧で、多くの犠牲者を出すことになります。

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大浦天主堂

その少し前1965年日仏修好通商条約でフランス人のための礼拝堂として長崎の大浦に天主堂が建立されました。別名フランス寺です。そうした事実上の開国によってキリシタン禁制の縛りも、外国人居留民に関しては例外的に認められました。そうすると教会を見ようと連日人々がやってきました。そんな中に、ひっそりとまぎれるようにして浦上のキリシタンたちもいました。目的は教会だけでなく、教会の中にある聖母子像サンタ・マリアでした。弾圧を耐えてまでも彼らがあがめていたのは、まさしくマリア様だったのです。「フランス寺」にはマリア様がいらっしゃる。そんなささやきが村人の間に広がりやがて大胆な行動にでます。大浦天主堂を訪ね、祈りを捧げていたプチジャン神父のそばに数人の男女が近づいて囁きました。「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」潜伏していたキリシタンが、初めてプチジャン神父の前に名乗り出た瞬間でした。キリシタンの復活。のちに「信徒発見」と言われた歴史的瞬間でした。これをきっかけに、浦上山里村四郷の総代10名を庄屋にやって、檀那寺との関係を断つことを申し出て4百戸以上の村民が寺請制度を拒否することになりました。こうした不穏な活動に長崎奉行が動き出します。礼拝堂の一つである聖フランシスコ・ザベリオ聖堂にいた68人の村人が捕らえられ牢に入れられます。その年の12月明治政府が誕生しますが、キリスト教を禁ずる制度・弾圧は続けられたままでした。

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マリア像

浦上の信徒に対するこうした弾圧・迫害のありさまは、在留の外国高官の耳に入るようになり、待遇改善などを申し入れるも、政府は否定し続け、英国サイドで調査を行い実情が報告されます。さらに1871年にも弾圧が行われ、これが欧米をさらに刺激し英国公使に報告されます。ついには岩倉具視を代表とする使節団(岩倉全権団)が不平等条約の改定を求めてアメリカに向かいそこでニューヨークの新聞を見て初めて事態を知るというありさまでした。政府は、外交上の重大問題に発展することを恐れ、1873年2月、ついにキリスト教禁制の撤廃に踏み切りました。明治になって6年もの時が経っていました。そして多くの信者が「改心もどし」を行いました。信徒たちは、大浦天主堂の司祭に相談し、当初は浦上川周辺に仮聖堂を建てますが、そこも手狭になり、もっと大きな聖堂を望む声があがり、それが「絵踏み」の庄屋高谷家の土地でした。それから前述した通り日清日露戦争のインフレを経て30年の年月をかけ浦上天主堂が完成しました。

山口大司教(59年当時)によると
「信者が毎土曜日持ってきたお金で、レンガを何枚か買ったり、石の素材を持ってきたり、それは気の長い遠大な計画だったですね。フレノ神父は、浦上の信者から非常に親しまれていた、柔しい人でした。そして清貧で着るものもボロで平気でした。集まったお金は全部御堂の建設につぎこんだ。しかし十年、二十年と続くと、矢張り仏の顔も三度やらで、段々むずかしくなる。大分苦労したらしいですよ」

【原爆投下―浦上への道】

1945年8月5日深夜。広島への原爆投下を前に、
出撃する509爆撃隊の乗員に対し、
従軍牧師によるミサが行われていました。

私たちは祈ります
戦争の終わりがくることを
私たちは知っています
まもなく地球上に平和が訪れることを
神のご加護がありますように
そして彼らが無事に任務を終えることができますように
私たちは神を信じて出撃します
神が私たちを永遠に見守り続けてくださいますように
キリストの名のもとに

原爆という究極の殺人兵器の第1発目は、キリスト教の牧師によって、こうして祝福を受け、漆黒の中、広島へ向けてテニアン飛行場を飛び立ちました。

〔そして長崎〕

長崎への原爆投下はトラブルの連続だったといいます。そして本来ならば周知の通り、長崎への投下は第一目標ではありませんでした。さらに、機体ボックスカーには広島型より500キロも重いプルトニウム型原爆ファットマンが積み込まれることになっていたのです。リーダーのパイロット、スウィーニーも機体の操縦には慣れていない人物でした。さらに原爆投下は軍の最重要機密事項だったため、下部の連隊には伝達不足でした。そのため、第一候補の小倉には前日空襲が行われ、8月9日の朝は火災の煙で、もやがかかり標準が合わせられないというトラブルに見舞われます。さらに機体の燃料も残り少なく、スウィーニーは原爆投下そのものを中止する選択肢もあったといいます。しかし、スウィーニーは、長崎上空へ行くことを決定し、照準係のビーハンにこう言い放ちます。

「長崎に着いたら1発で決めてやるのだ、何が我々を待ち受けるかは神のみぞ知る。」
振り返って「これ以上悪いことが起きるはずがないよな」

しかし、長崎も雲に覆われていました。それでも投下することを決めていたスウィーニーは、雲の切れ間を探します。予定では長崎への投下は、長崎市の中心部、眼鏡橋から賑橋付近でしたが、ようやく見つけた雲の切れ目は日本カトリックの聖地浦上上空でした。「見えるぞ!街が見える。おれに任せてくれ」そこには三菱兵器工場がありました。ビーハンは「爆撃開始」と叫び、「原爆投下」と言いなおしました。爆弾の重さは4.5トン。それが機体を離れた瞬間、反動でボックスカーは上へと跳ね上がりました。時刻は11時1分、投下後43秒で爆発する仕組みになっているので、被爆時刻11時2分と符合します。ボックスカーはすぐに離脱をはじめました。ですが地上では凄惨で悲惨な光景が広がっていました。落下中心部にいた人や生きものは、骨すら蒸発し影しか残らなかったといいます。原子野の光景と被爆体験については当ブログの「ヒロシマ・ナガサキ二重被爆」「ナガサキノート若手記者が聞く被爆者の物語」に詳しく書いています。

【仕組まれた提携】

被爆した浦上天主堂を保存するか再建するかの議論が行われていた当時の市長は田川務氏でした。田川市長自身も被爆し浦上天主堂の平和のモニュメントとしての保存には前向きだったといいます。それが一転する事態が起こります。55年、米国から長崎市へ日本初の姉妹都市提携が持ち込まれました。それは熱心なカトリック信者が多数いることで知られているセントポール市。そして田川市長のもとにアメリカから招待状が届きます。しかし、当時外国に行くということは市の財政をもっても無理であり、1年延期することになるほどでした。しかし、事実上費用はアメリカ持ちということで、渡米が実現します。しかしここでアメリカのある思惑が浮かび上がってきます。姉妹提携の承認を議決した日が1955年12月7日(アメリカ時間)。そう、真珠湾攻撃の日です。そして冒頭に出てきた市役所火災の際、焼け残った「インディアンの番人」と呼ばれるブロンズ像(役所の火災で焼け残った平和のパイプ)や友愛のカギの贈呈など、田川市長のアメリカ訪問は事実上のアメリカ側の接待と懐柔でした。田川市長はセントポールを振り出しに、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、そしてハワイと全米主要都市を北から時計回りに東部、南部、西部とぐるっと回っただけでした。またセントポールはノースウエスト航空の本拠地で日本へ航路を開きたいという思惑もあったといいます。それと田川市長がワシントンへ立ち寄った際、何らかの形で国務省の関係者と会った記録があります。ここで何が話し合われたのかは記録になかったといいます。

【田川市長の心がわり】

アメリカから帰ってきた田川市長は、渡米前とは明らかに態度が変わっていきます。天主堂の保存に反対したことがなかった田川市長が、残すことに消極的な姿勢を見せ始めます。当時の市議会も紛糾したといいます。当時のある議員は著者の取材に対してこう言います。

「本当に今残っておったら世界遺産だったはずです。悔やまれてならんと、ほんとうに。あれは20世紀の十字架です。人類の愚かさを教えてくれるものだった。キリスト教を信じとる国が、同じカトリック信者のおる浦上の真上に原爆を落とした。まるで作り話のような物語性をもった世界遺産になったとではないですか。我々市民の力が足らなかった。慙愧の念に堪えん。悔しさがあるね」

ここで議会での田川市長の答弁を取り上げてみます。

「(中略)浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として十分なりや否や、こういう点に考えを持ってまいりますときに、私は率直に申し上げます。原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために在置する必要はないと、これが私の考え方でございます(中略)」

前出の当時の元議員はこう振り返ります。

「そりゃあもう、まるで小学生みたいな答弁でしたからね。田川市長は、名市長と言われた人ですよ。高潔で、汚職なんてなくて。それに弁護士出身だったでしょう。それが子供みたいなことを言うて抵抗するわけですから。アメリカで何かがあったとしか思えんのですよ」

それでも保存を求める要望にはこう田川市長は答弁します。

「この資料をもってしては原爆の悲惨を証明すべき資料には絶対ならない、のみならず、平和を守るために必要不可欠の品物ではないという観点に立って、将来といえども多額の市費を投じてこれを残すという考えは持っておりません」

議会側は浦上天主堂の山口司教を訪ね、廃墟の保存を要請しますが、教会も撤去の方針であることを決めており、その方針は変わりませんでした。そして撤去作業と一部の壁の移設が行われたのです。

【傷跡は消し去れ】

ここでは教会側の動きを追っていきます。54年7月「浦上天主堂再建委員会」が発足しています。ですが再建費用が足りないこともあり、山口司教がアメリカのカトリック施設をめぐり寄付金を募ることになります。しかしセントポールを山口司教が訪ねた際にコメントした新聞記事に興味深いことが書いてあります。

「長崎とセントポールが姉妹都市の関係を結んだことにより、再建プロジェクトを進め、残りの爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」

山口司教が天主堂を再建したい気持ちは分かりますが、「爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」というのは、踏み込んだ発言でした。古巣現神父によると、浦上天主堂を再建したいという教会側の気持ちは、ものすごいものがあったはずだったといいます。ただアメリカからみれば原爆の遺構を残しておいてほしくはなかったでしょうね。田川市長と中島神父(教会側の窓口)はツーカーだった。むしろ(廃墟を)残したかったのです。しかし、最終的には山口大司教が決定権を持っていたようです」

信者たちの中にも少なからず廃墟を残すことに賛成の人たちもいたといいます。そして取り壊す時には批判もでました。それに対して中島神父はこう言ったといいます。

「こんなガラクタなんていらない。そんなものにしがみついて。
欲しければ市にやってしまえ」

浦上の信徒は、原爆のことを“浦上五番崩れ”と言います。度重なる崩れのあとに立ち上がってくる。そういう意味では、そこは選ばれた土地だと思います。

アメリカで募った新しい天主堂の資金の提供は、廃墟の取り壊しとセットでなければならない、といった話となり、約束なりが米国の協会側とあったのだろうか。そういうものがまったくなく、あくまで山口大司教の気持ちの問題だとしたら、信徒たちがレンガを1枚1枚運んで建てた壁を、厄介者のように捨てることが、どうしてできるのでしょう。「爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる」とどうしていえるのでしょうか・・・。

平野勇現主任司祭はこう話します。
山口大司教が、資金集めのためにアメリカを回ったときのことについては、「廃墟を壊すことが条件だったのではないか」と語ります。「傷跡を残すのではなく、撤去する。それが条件だったように口から口に伝わっています。そんな話があったように聞いています」ということだったのです。

ここで現在のアメリカの反応を見てみます。

TIME誌によると
「広島は今でも過去の『キノコ雲の残影』に捉われているが、
長崎は今を生きる強い決心がある。」

米国の原爆に対する調査委員会は
「この都市(広島)は世界で唯一、過去の不幸を宣伝している。」
とコメントしています。

「キノコ雲の残影」が原爆ドームだとしたら
このように長崎には何もないと書かれることはないでしょう。

そして著者が目を引いた記事は田川市長が語った発言です。「長崎市長を長く務め、原爆で自宅を破壊された田川務市長は、住民は米国に対して苦痛を感じていないという。『もし日本が似たような兵器を所持していたとしたら、同じように使っていただろう』」

住民とは長崎市民のことでしょう。長崎市民が苦痛を感じていないとはどういうことなのか。何をもってそう判断できるのか。多くの市民が被爆後も原爆症に苦しんでいる人たちへの配慮や想像力はうかがうことができないのかと著者は書いています。

そしてここで見逃せない事実があります。田川市長の渡米と、山口司教の資金集めのための渡米が同時期に行われていることです。これは当時としては単なる偶然とは思えません。なぜかは次の項目で考えてみましょう。

【アメリカ】

長崎がセントポール市と姉妹都市提携していた頃、姉妹都市提携は長崎だけでなくフィラデルフィアと広島を結ぶ動きもあったといいます。ここから長崎と広島に対するアメリカの反応をみていきます。

〔原爆を政治利用する広島〕
〈ザ・デイリー・クーリエ誌〉
タイトル「長崎の市長が広島のイメージ戦略を非難」
本文「原爆が投下された第二の都市の市長、田川務氏が今日、広島が破壊を利用し利益を得ようをしていると語った」

〈UPが配信した記事〉
「田川市長が、広島は原爆投下を宣伝のために政治利用している。長崎は違う。私たちは宣伝しない」

他の新聞も
「私たちは宣伝することを好まない。人生におだやかな展望を持っている市民なのだ。日本は西洋に対して(中略)軍事独裁を行ってきたリーダーたちは長崎だけで制限つきの貿易を許してきた。(中略)ポルトガル船の訪問とともに1571年に貿易が始められた。宣教師、特にカトリックも入り、今日では長崎は日本でのカトリックの中心となっている。(中略)このような長年の海外との交流のおかげで、長崎の人々は寛容な精神を持ち、原爆に対して憎しみを持たなかったと思う」

〈ニューヨークタイムズ誌〉
山口大司教(ポール山口)氏が振り返った。
「多くの日本人が、比率でいくと最大のクリスチャンコミュニティのある長崎を原爆が襲ったことに対し、皮肉を感じている。しかし、カトリック教徒は、この試練を、戦争が終を終わらせるための殉死とみなし、罪に対しての神の鎮静だと考える」

これを読むだけでアメリカが何を言いたいのかはだいたいお分かりになるでしょう。一つは原子爆弾の正当化。もう一つは反共プロパガンダです。田川市長は資金難でセントポール行きを1年延ばしています。ですがその費用を肩代わりしてくれたのは、アイゼンハワーが設立したUSIAです。

この団体の設立趣旨は
「アメリカのありのままを知らしめ、体験させることが、結局は共産主義その他の敵対的イデオロギーから覚醒することにつながる」
ということなのです。

この団体は現在でも活動し、世界中もちろん日本人も含めて、国家的また国際的なリーダーたちの多くを輩出しています。もちろん敵対勢力の国々からの招待も行っており、その活動は現在でも活発です。しかし、重要なのはもう一つあります。この団体には多くのCIA関係者やCIAのスパイと目された人物たちが多数関与していることです。そこに田川市長の渡米そしてセントポール市との姉妹提携が何を意味しているのかは、もうお分かりのはずです。

【天主堂廃墟を取り払いしものは】

著者は一つの仮説を出します。

アメリカは廃墟の存在は知っていたものの、それほど重要なモニュメントとは感じていない可能性があるということでした。しかし、ソ連に対する軍事的封じ込め政策から、経済、文化、広報、人的交流などを通じた広範な「安全保障」政策へと転換するなかで、天主堂の廃墟の持つ意味を次第に理解したのではないかということです。

つまりは、そうした時代に、原爆によって破壊された浦上天主堂の廃墟の残骸が、戦後十年を経てもなお爆心地近くの丘に残されていることは、アメリカから見れば、それは反核、反米感情を刺激する建物として、キリスト教徒の上に同じキリスト教徒が原爆を落とした罪の象徴として、忌まわしいものに映るということです。

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現在の浦上天主堂

【感想】

総じてアメリカにとって浦上天主堂の保存、また反核平和運動というのは共産主義勢力のプロパガンダとみなしているということと、自国の原爆正当化に対する異論を避けたかったということでしょう。広島のみなさんには申し訳ないですが、もし廃墟となった浦上天主堂が残っていたとしたら、広島原爆ドームの比ではないほどのインパクトをキリスト教圏の人々に与えることになったでしょう。田川市長また山口大司教の両人が渡米中、アメリカの要人たちと何を話し何を決めたのかということは、最後まで謎ですがそういった記録よりも、今この現実そしてここに紹介した本書の内容から察すれば、だいたいの推測はつきます。

アメリカは広島の反核平和運動を共産主義のシンボルのように取り上げていますが、広島は被爆した市民たち自らが多くの抵抗のなかで原爆ドームを保存し守りぬいたのです。歴史の皮肉とはものの言いようで、その原爆ドームそのものが世界遺産に認定されています。しかし、田川市長が一概に悪いとはいえません、もちろん山口大司教に責任があるわけでもありません。文中に書いた通り、長崎市は極度の財政難で市民の住む家も食糧も困窮を極めていました。山口大司教にしても、カトリックの拠り所である教会の自己再建は当時としても困難極まりなかったと思います。それに敗戦国でありGHQ支配下の日本で、どうしてアメリカの意見にNOがいえるでしょうか。

本書を読んで、長崎市と長崎市民は広島市と広島市民のような気概を持っていなかったと結論づける方もおられるかもしれませんが、もしかして、田川市長と山口大司教は、世界でも最重要に位置されるであろう戦争遺物を残さなかったということの責任を、すべて自らの責任として引き受けたうえでの決断だったのではないかと思います。そう考えると、廃墟が消されてしまった無念さと同時に、両人の無念さも伝わってくるようです。

なお本書では表紙はもとより、本文中にもたくさんの写真資料が収められています。冒頭で書いたように、被爆した天主堂の悲惨な情景は胸をつくものがあります。それとブログに添付した画像は私自身が写した現在の再建された浦上天主堂ならびに大浦天主堂の画像です。

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