2010年01月08日

インドのことはインド人に聞け!@中島岳志

講談社様、R+様献本ありがとうございます。さてインドといえばどのようなイメージをもたれるでしょうか。例えば、数ある旅行もののエッセイや、パックパック旅行記、またテレビのドキュメンタリーなどによる、刺激に満ち溢れオリエンタルな神秘の国というようなイメージだと思います。しかし、本書を読むとそんなイメージがガラッと変わるインドの現在が分かります。

本書はインド研究者中島岳志氏が中心となり、現地メディアのインド国内の読者に向けて書かれた新聞雑誌の記事をセレクトし、「クーリエ・ジャポン」誌に5回に渡って特集された記事をまとめ、6章にわたってインドの現在を紹介しています。

インドについてのイメージは冒頭で紹介したこと以外に、ビジネスの分野でもBRICsとして脚光を集めIT新興国としても注目を集めています。一方では旅行記やテレビドキュメント等で知られる混沌としたインドのイメージがあります。その内実をインド国内メディアで読み解けば、一言で「インド人の日本人化」です。貧しい日本が高度成長によって経済発展するに伴い様々な問題が浮上したのと同じように、インドも今、急速な経済成長により地域や経済の格差が広がり、日本が経験した様々な社会問題や現象がインドも同様に起こっているといいます。

今インドでは中流階級の富裕層が急激に増え、それに伴い文化や生活また教育などのライフスタイルまで日本化しているそうです。例えば、現在インドは空前の健康食品ブームであり、エステや美容も同様にブームとなっています。さらに、食生活はファーストフードがもてはやされ、家庭料理のカレーが廃れてきています。そして、高度経済成長に伴い、これも日本でそうであったように、核家族化や家族関係の希薄化、そして受験戦争の激化と空前の教育バブルが起こっています。そのため、インドでは若者の自殺者数が世界一になるなど社会問題となるほどです。

そして、富裕層が増え物質的に豊かになればなるほど、人々の間では心の豊かさを望むようになります。そのため、新興宗教やスピリチュアルな世界、また自己啓発的なものに拠り所を求める人も増えているといいます。ちなみにインドで拡大する新興宗教は、意外にも日本発祥の「創価学会」と「レイキ」なのだそうです。また伝統のヨガよりも太極拳が流行し、同じヨガをするにしても欧米から逆輸入の欧米式のヨガなのだそうです。また若者の結婚観もそれまでの因習である、カースト間の見合い結婚などから、自分に合った相手を見つけようとする変化が起こっています。

しかし、インドには現在でも因習にとらわれた負の部分が残っています。それはカースト制での不可触民や女性や子供への不当への差別です。本書で紹介されているのは、少女寡婦の問題です。カーストや経済格差の最下層の農村部ではわずか3歳から結婚相手を決められ、不意の事故や病気によってその少女たちが夫を亡くしてしまうと、どんなに幼くても実家からも嫁いだ家からも不当な差別を受けてしまいます。また「ナタ」と呼ばれる制度があり、少女寡婦たちは強制的に再婚させられ、必要な教育も生活も奪われ奴隷のように扱われてしまいます。また「サティー」と呼ばれるヒンドゥーの宗教的伝統では、夫が亡くなった場合、夫を火葬する炎の中に妻が入り共に亡くなるという因習が残っており、国の制度上は禁止されているものの、現在でもそれが後を絶たないといいます。またカーストでの不当な職業や因習での差別もあり、先ほど書いた新興宗教や仏教への改宗者も増えています。

そしてインドを舞台としたアカデミー賞受賞映画「スラムドッグ$ミリオネア」についても、インド国内では賞賛派と否定派との議論が巻き起こっているといいます。賞賛派は、スラムを美化し、スラムでも子供たちは生き生きし、大人がなくした心を持っているというような感想を持っているのに対し、否定派はスラムの現実を直視し、インドが直面している問題から目を逸らそうとしていると訴えています。まさにこれも日本で成功した「ALWAYS 三丁目の夕日」を見た日本人と同様の構造があります。

総じて若者たちがこぞって「自分探し」に向かうインド。しかし、その内実は実に日本化した社会です。現実のインドは「IT大国」「混沌の世界」「悠久の大地」といったイメージとはかけ離れた、ごく日本的な社会だったのです。インドはその急速な経済成長と共に、世界中から新たな新興国として注目を集めるようになりました。旅行ガイドや旅行記では、分からないインド。これから経済的文化的に結びつきが強くなるともいわれているなか、イメージでは分からないインド現地のメディアが報道する本書は、現在のインドの実情を知るためには良い内容だと思います。

インドのことはインド人に聞け! (COURRiER BOOKS)
インドのことはインド人に聞け! (COURRiER BOOKS)中島 岳志

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2009年11月05日

【写真集】百年の愚行

産業革命と呼ばれる時代から百年以上がすぎました。
本書はその百年の間に人間が行った愚行をビジュアル的に
示唆する内容です。

地球温暖化・砂漠化・動植物の絶滅・大気汚染・戦争・自然破壊
こう羅列したところで具体的な実感は湧かないだろうと思います。
しかし、本書のはこの100年に起こった象徴的な場面を
写真を通して伝えようとしています。

また世界各国の研究者や日本からは池澤夏樹氏らによる寄稿で
この文明と自然の衝突と呼ばれる人間がこれまで行ったこと
そしてこれからどうなるのかということを知ることができます。

我々は文明という名のもとに自然界のあらゆるものを
消費の対象にしています。また消費はさらなる消費を
生み出し、経済や産業は商業活動の名のもとに消費拡大の
一途を進んで行っています。

食料増産の名のもとに伐採された森林。
産業というなのもとに垂れ流される廃棄物
密漁によって無残に殺される希少動物
有史以来絶えず繰り返される戦争。

それらが写真を通して圧倒的な迫力で
読者に警告します。

時には目を背きたくなる写真があります。
焼畑や枯葉剤によって荒野となってしまった
かつての森林、そして海へ流される土砂。

産業汚水によってどす黒く濁った湖。
石油によって真っ黒になった水鳥。
密漁によって牙を切り取られたサイや象。

そして戦争によって追われた難民たち。
戦場に打ち捨てられた遺体。
難民キャンプで放置される死にかけた子供。
地雷で両足を失った女の子。
そしてアウシュビッツの凄惨な遺体の山

人種隔離政策によって貧困にあえぐ
スラムの人々。

思わず目を背けたくなる場面が多数あります。
しかし目を背けてはならないのです。

これが我々人間たちが成し遂げた文明の
閉ざされた裏側なのですから。

A・キアロスタミは一言でこういう。
「人間はあまりにもうぬぼれてしまった」

最後に本書のあとがきから紹介します。
「世紀が改まったというのに、世紀末的状況はまったく変わっていない。いや、ほぼ確実な人口増と資源の減少を考えると、状況はますます悪くなっていると言える。2050年には、世界人口は100億に達するともいわれているのだ。多数の人間と少数の資源は、必然的に奪い合いを促すだろう。現に、現在の消費傾向が続くならば、2025年には世界人口の3分の2が水問題に直前するといわれている。水資源は一定量しかないからである。これはほんの一例にすぎない」

この百年の間に人間はこれらのことに目をそらしてきたかもしれない。
だが事態は刻一刻と深刻化しています。

百年の愚行は未だに続いています。

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2009年03月20日

本:ウソの歴史博物館

古今東西世界中のウソとペテンを集めた1冊です。本当にあきれかえるような嘘が満載で面白い1冊でした。本書には中世から現代に至るまでありとあらゆる嘘が集められていますが、今では考えられないような嘘でも当時の人は信じてしまう。またそれが人々に大きな影響を及ぼし政治やまして市民生活まで変えてしまうのだからすごいです。

有名なガリバー旅行記。これは現在当時の状況をスイフトが風刺した物語として紹介されましたが、当時はこれを本当に信じていたとか。当時のヨーロッパは外国に行くことすら稀で、村自体が独立したコミュニティで隣村さえ行ったことがないまま一生を終えることもあったほどなので遠方の情報が貴重でした。

だからこそスイフトの旅行記は人々の想像をかきたてるのに十分だったのです。さらに当時は宗教の権威が大きかった時代でもあります。各国の書く都市はキリストの聖遺物を集めることが盛んで、それが教会や村のステータスだったそうです。そんなこともあって古文書の偽書や聖遺物の収集に盗賊団を雇って隣町から聖遺物を盗ませたりすることもあったそうです。しかしその大半は偽物でした。有名なものはキリストの聖骸布などでしょう。中にはキリストとマリアのへその緒なんてとんでもな品物まであったらしく、当時はまさに聖遺物バブルの様相を呈していたようなのです。そんな中でのガリバー旅行記は当時の人々にセンセーショナルに受け入れられました。他にも似たような書物が多く出回り、今に伝えられるファンタジーやアニメの原点のような妖精や巨人また獣人族なども当時は信じられていたそうなのです。十字軍遠征の頃のことです。ある偽書が王族に届けられました。東方の未開地にある屈強な巨人族の王国が十字軍に援助を申し出してきたのです。たちまちヨーロッパ中が沸き、あるはずもない架空の王国へ使者まで送ったそうなのです。しかし、いっこうに使者が戻りません、しかし人々は信じ続けます。この偽書はその後もずっと信じ続けられ、数十年の時を経ても使者が送られ続けたそうなのです。

時代がすぎれば嘘もより巧妙により発達してきます。当時の嘘はせいぜいが人づてに広がる口コミがほとんどでした。しかし、近代に入るとメディアが登場します。新聞が市民の前に登場すると嘘もより広がり影響力も増してきます。当時の新聞は富裕層向けと一般市民向けいわゆるタブロイド紙に近いものに別れていました。やがて現在の新聞は政治や経済に忌憚無く批判することをよしとしたこのタブロイド系の新聞が主流となるのですが、当時の新聞では様々な嘘合戦が繰り広げられました。

当時からオカルト批判というものは根強くあったそうです。評判のある星占術師がいました。彼の暦は当たると評判でした。そこであるペテン師はその星占術師の暦とそっくりの暦を発売します。それにはその占い師の死亡日が予言されていました。当の本人はそれを強く否定しましたが、新聞はどちらの占い師が当たるか面白おかしく書きたてます。死亡日当日がやってきました。ペテン師は占いが当たったことを新聞などにセンセーショナルに書き立てます。しかし本人は生きています。もちろん本人は生きていることを名乗り出ますが、市民は信じません。とうとう名乗り出た本人は生きていたであろう占い師を騙った偽物だと思われてしまったそうです。それ以後その占い師の消息はつかめなかったということです。このように新聞は時にこういったペテンに乗るようなこともしていたのです。

また記者たちも時に嘘を書くことがありました。当時は今と違って少々の嘘も許されていたなんとも大らかな時代でしたが、やはり批判を浴びることばかりでした。しかし、そんな嘘記事の記者たちの中にはその後著名な小説家になるなどの人物もいました。代表的なのは「トムソーヤの冒険」のマーク・トゥエインでしょう。マーク・トゥエインの所属していた新聞社は当時、投資家に鉱業から公益企業へ投資先を変えさせようと運動を起こていました。そこでマーク・トゥエインは、ある記事を捏造するのです。男が公共企業に不正に帳簿を改ざんされてしまっために全財産を失い、家族を殺し酒場の前で首を切って自殺したという記事です。これもセンセーションを巻き起こし、市民に大きなショックを与えました。これはマーク・トゥエインが当時の新聞社が一方的な運動を起こすことに批判的だったのが理由なのだそうです。もちろんマーク・トゥエインも記者を外されてしまいましたが。

さらにラジオやテレビが登場すると嘘の広がりは世界規模となりました。ヨーロッパ中を騒がせた「パスタのなる木からの収穫」またパニックを引き起こしたH・G・ウェルズの「宇宙戦争」など時に人々を恐慌に陥れてしまうものまで現れました。またけっして嘘やペテンで済まされないものも現れます。メディアを使ったプロパガンダや株式操作などです。また人々の間で都市伝説になるほどのものもあります。火星には空気があり人が住めるということで政府が密かに火星移住計画を進めているという「第3の選択」また、長年にわたりユダヤ人へ災禍をもたらすことになる悪名高い最悪の嘘「シオンの議定書」(シオンの博識な長老の議定書)などです。

「シオンの議定書」がもたらしたユダヤ人災禍、ホロコーストやその後のユダヤ人陰謀説また迫害の歴史の元となったこの書の原典は、モリス・ジョリーが1856年に著した「マキャベリとモンテスキューの冥府での対話」という文書です。これは皇帝ナポレオン3世を攻撃するために書かれた書で、ナポレオン一味がいかに民主的な制度をぐらつかせているのか書かれています。捏造者はそれをナポレオンからシオン主義者に置き換えたにすぎません。原典はユダヤ人に一切関係が無い文書だったのです。それが世紀の変わり目のロシアで改ざんされユダヤ人が壮大な陰謀を企んでいるような証拠にもちいられてしまったのです。

このように近世から現代にかけてはペテンどころか人を不幸にする嘘の歴史でもありました。最近では、メディアの情報だけでなくインターネットも発達し、虚実入り乱れた情報が飛び交っています。昨今情報リテラシーが言われて久しいですが、初めからかい半分の冗談ともつかなかった嘘は現代に至り人々に多大な影響を及ぼすものになっています。もうすぐエイプリルフールです。今年もメディアは罪のない嘘を書くかもしれません。しかし、本書で紹介したパスタの木などもエイプリルフールのものです。皆様今年も4月1日にはご注意を。

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※表紙は9.11テロの偽写真です。
後方に今にもぶつかりそうな航空機が迫っている写真。
これは偽物です。よく見れば9月の暑いさなかに
冬物を観光客が着ていることとそしてビルが第2タワーであること。
航空機が突入寸前だとしたら、すでに第1タワーは炎上している
はずだからです。テロの前の寒い時期に写した合成写真です。
ですが、この写真はいまだに多く信じられています。
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2009年01月06日

ユダの福音書を追え

キリスト教社会において、イスカリオテのユダといえば裏切りまたは反ユダヤの象徴でした。しかし、ナイル川流域で見つかったパピルスの写本はそれまでの常識を覆すものだったのです。それはさかのぼること1945年に発見されたナグ・ハマディ文書を補完するグノーシス派の文書であり、写本には「ユダの福音書」の文字が書かれていたのです。

福音とは”良いしらせ“との意味でも分かるとおり、それまでのユダに対する価値観を180度転換するものだったのです。しかし、発見された「ユダの福音書」は闇市場で暗躍する古美術商を転々とし果ては盗難の憂き目にあうのです。

さらに劣悪な環境によって古代パピルスの写本は劣化が進んでゆきます。まさに”ユダ“の名前が冠されるだけに、写本は数奇な運命をたどっていきました。

この本では貴重な歴史の遺物が盗掘され、それが闇で売買される現状を「ユダの福音書」を通して語られていきます。紙数のほとんどが、発見されたいきさつ、そして復元・解読のあらましで「ユダの福音書」については触れられず少し残念でした。

ユダの福音書を追え
ユダの福音書を追え
ハーバート・クロスニー

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私はヒトラーの秘書だった

27才のトラウデル・ユンゲは1942年から1945年の終戦までの2年半に渡って、ヒトラーの個人秘書として、第3帝国の終焉とヒトラーの自殺に立ち会いました。

ユンゲが秘書となった当時は、ちょうどドイツ軍がスターリングラードで苦戦していた頃で、戦況はすでに傾きはじめていました。そして彼女の間近でヒトラー暗殺未遂事件やベルリン攻防戦があり、ヒトラー最後の地となる総統地下壕での生活が待っていました。

私人としてのヒトラーは彼女の前では決して政治的な話はせず、側近ひとりひとりを気遣い、時として自分の生い立ちや不遇の時代のことを冗談めかして話して聞かせたり、結婚の心配までしたといいます。

彼女はヒトラーの側近の一人として、崩壊にむかう第3帝国と追い詰められていくヒトラーの素顔を臨場感あふれる筆致でせまっています、と同時に当時のドイツ人の1人の若者として独裁者ヒトラーとナチス、そして戦争の狂気ついて、自己批判をまじえ当時を回想しています。

私はヒトラーの秘書だった
私はヒトラーの秘書だった
足立 ラーべ 加代 高島 市子

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2009年01月02日

囚われのチベットの少女

《著  者》  フィリップ・ブルサール 著 
              ダニエル・ラン 著 
              今枝由郎 訳                       

《出 版 社》  トランスビュー (ISBN:4-901510-06-1)

      《価  格》  2,100円(税込)

      《著者紹介》
       
      ブルサール,フィリップ
      (Broussard,Philippe)
      1963年生まれ。ル・モンド紙のレポーター

      ラン,ダニエル(Laeng,Danielle)
      1955年生まれ。フランス・チベット人支援委員会の
      インド在住代表

      今枝 由郎(イマエダ ヨシロウ)
      1947年生まれ。1974年、大谷大学卒業。
      1974年にフランス国立科学研究センター(CNRS)
      研究員となり91年より同主任研究員、現在に至る。
      またブータン国立図書館の建設に尽力し、
      1981〜90年まで同国立図書館顧問。
      1995年、カリフォルニア州立大学バークレー校客員教授。
      専攻、チベット歴史文献学。パリ第7大学国家文学博士
       
 
      《目  次》

     一枚の写真(2001年)
     歴史の中の一家族(1950‐1978年)
     人生の二つの軸(1983‐1987年)
     ガリの女たち(1987年)
     舞台への登場(1990年)
     拷問と尋問(1990年)
     グツァの孤独(1990年)
     チョチョの涙(1990年)
     崩壊した家族(1991年)
     最後の選択(1991年)
〔ほか〕


 11歳で捕らえられ、チベット非暴力抵抗運動のシンボルとなった
 女性の伝記です。中国による弾圧と民族浄化の危機にさらされる
 チベット。11歳の少女ガワン・サンドルは尼僧として、
 チベットに自由と独立が戻ってくるその日まで闘い続けています。


 チベットは、仏教で最高位にあるダライラマの精神的・政治的指導下に
 あり、外交的駆け引きや時の流れの外に生きていました。
 ダライラマ14世はまだ青年で、摂政、閣僚、そして不易の砦ヒマラヤに
 守られ、世界の現実から隔離されていました。


 しばしば高みの至聖所と称される「世界の屋根」は、
 決して完璧なところではなく、首都ラサには富と貧困が猥雑に
 同居しており、地方では多くの農民が地主の農奴と化していました。
 貴族と僧侶階級の一部は、チベットは永遠に神に祝福された国であると
 信じきっており、それ故にチベットは孤立し、攻撃されても
 助成してくれる国はありませんでした。


 共産主義者にとっては、いい助言者もなく、世界の動きにまったく無知な
 ダライラマは、危険でもなんでもありませんでした。彼らは、
 数世紀にわたって封建体制の下で生きてきた民衆を「平和解放」すると
 主張ましたが、「解放」とは、インド、ネパールの北に位置し、
 自然資源の豊かなこの国を併合することに他なりませんでした。
 北京政府は正当化のために、チベットはかつて中国の一部であったと
 主張しますが、これは偽りで、強力な隣国中国とは深い関係は
 あったものの、チベットは常に独立していました。


 しかし、毛沢東は、世界の誰も、この歴史の一点に関して
 抗議などしないことも心得ていました。フランスで、アメリカで、
 誰がこの遠い「有雪国(チベット)」のことを心配するだろうか。
 事実、侵略者に手向かうのは東チベットの騎馬民族カンパだけでした。
 首都ラサの高みのポタラ宮殿に引きこもったダライラマとその側近は、
 調停の道を模索しました。すべての仏教徒がそうであるように、
 非暴力主義者であるダライラマとその側近は、文化的・政治的な自治を
 保ちながら国を救えればと願っていました。
 しかし、彼らの判断はあやまりだったのです。


 寺院の管理を任されていた少女ガワン・サンドルの父ナムゲル・タシを
 はじめとする一家は、中国による侵略後、家族全員が共産主義者に
 反対のかどで告発されました。妻と2人の子供と一緒に住んでいた
 妻の両親の家は没収され、社会的な辱めとして羊小屋に住まわされます。
 やがて文化大革命(1966−1977年)となり、もっとも厳しい
 抑圧の時代がきました。


 「旧体制」を象徴するもの、人・本・文化遺産・宗教は追及され、
 知識人ナムゲル・タシは妻ジャンパ・チョンゾムとともに
 強制労働に送られ、妻の母は公衆処罰に晒されました。
 タムジン(人民裁判)では、「反革命派」が処刑されたり、
 頭に帽子をかぶらされ、首にはプラカードをかけられて、
 公衆の面前に引き出され、集まった人々から侮辱され、
 時には殴る蹴るなどされました。年老いた妻の母はあまりにも惨い
 仕打ちを受けたため、死んでしまいました。


 亡命チベット人によれば、この過ちのせいで少なくとも
 百万人のチベット人が死に。六千あった寺院は廃墟と化しており、
 紅衛兵は本を焼き、仏像を壊し、仏具を溶かして金を抽出しました。


 少女ガワン・サンドルは他の子供とどこか違っていました。
 両親は、彼女が不平を言ったり、泣いたり、わがままを言うのを
 見たことがありませんでした。彼女の辛抱強さは兄妹には不可解で、
 どこまで辛抱できるか試してみるためによくからかいました。
 冬寒くてふとんの中でも震え上がるようなとき、
 彼女に文句を言わせようと、兄妹は凍った足で彼女に触れます。
 しかし彼女は彼をはねつけはしませんでした。
 それどころかその足を手に取り、マッサージし、
 さらには温めるために胸にあてたのです!


 もうひとつは、チベットの正月のある夜、子供は全員通りに出て
 爆竹と花火に火をつけていました。少女は兄に近寄り頼みました。
 少女は右手を出し、兄はロケットをおきました。
 彼が火をつけロケットが発射するや、少女の人さし指の先端が
 もぎとられてしまった。傷口から血がほとばしり出て、
 少女は痛くて泣き叫びました。もぎとられた指先は
 あまりにもひどい状態で接合することができず、
 病院のゴミ箱に捨てられました。


 少女は泣き、唸り、身体中震えていましたが、兄を恨んでは
 いませんでした。一晩中、事故の張本人の帰りをうかがう両親に、
 彼女は許してくれるよう乞い続けます。
「お兄さんを罰しないで、お願い、ぶたないで!」
 少女は、父親が兄を殴らないように説き伏せました。
 恥じ入りながらも兄は、またしても妹の善良さ、その赦しの心、
 犠牲心を思い知ることになります。この日から少女は、
 この右手の障害を抱えて生きることになり、
 今でも彼女はペンを親指と中指で持っています。


 1970年代の末に約束された開放政策に関しては、
 限界は目に見えていました。北京で発表される決断と、
 チベット在住の役人が日々施行することの間には開きがあったのです。
 もっとも権力を持つものはその特権によって、
 チベット人を侮辱するばかりでした。


 観光客があふれ、寺院が一部修復され、少しばかりの
 信仰の自由があるとはいえ、チベットは中国の一地方であり、
 占領者が氾濫して併合は効果的に進められていました。
 あたかも中国はチベット人を外国人少数民族、
 檻に入ったライオンと化す術を見つけたかのようです。


 実際、何千、何万という占領者、それが警官であろうと、
 教師、兵士、行商人であろうとかまわない、それを連れ込めばいいことで、
 そうすれば元来の住民は自然と大勢の中に埋もれてしまいます。
 彼らの子供は中国人の子供と遊ぶだろうし、民族間結婚で両民族は
 統合されていくでしょう。


 ラサは他の工業都市と同じく、工場が建ってたえず拡大していくでしょう。
 もちろん僧侶と尼僧をはじめとするしぶとい者は残るかもしれません。
 こうしたどうしようもない連中は、街の外に監獄とか基地を作り、
 そこに放り込めばいい。これで共産主義の前進に刃向かえると
 豪語していた、この誇り高く頭の硬い民族はおしまいなのだと考えました。


 ガワン・サンドルは、わずか8歳にしてラサの北のガリ僧院に入りました。
 他の初心者同様、少女も大半の時間を祈りに暗記に費やしました。
 何十、何百と暗記して、正しい音階で唱えなくてはなりませんでした。
 しかし仏壇の世話と同じで、少女はこうした聖典を暗記するのに
 自信を持っていました。歌は大好きだし、祈りは家の伝統なので、
 うまくできるに決まっていました。


 ガワン・サンドルはまだ子供で、ちょっと肥えた人形のようで、
 年の割には小さかった。毎朝保護者の前で日課を唱えるたびに、
 保護者は自分の生徒の才能に目を見張りました。その意志力、完璧主義、
 そして難解な真言を暗記し、チベット語を習得する能力は
 驚嘆に値しました。


 ガリの若い尼僧の大半と同じく、11歳の彼女はデモに参加するのを
 夢見ていました。戒厳令が解かれたばかりの国で、この取り憑かれようは
 悲壮であり、ほとんど自殺的でした。それに気がつかないこの少女はは、
 何を望んでいるのか、「自由チベット万歳!」と1、2度叫んで、
 それでどうなるというのか。その先に彼女たちを待ち受けているのは、
 逮捕、拷問、勾留なのです。


 彼女たちの言うことを聞いていると、信仰と愛国心の名の下に
 犠牲を払うのは義務のようでした。民衆の前に留まり、
 民衆が彼女たちの苦悩を感じてくれれば、それで目的達成なのです。
 つまり意識を目覚めさせておき、諦めのなかに沈み込んでしまうことを
 避けることです。叫ぶための数分の自由のために、このまだ子供のような
 女たちは逮捕され、投獄され、一生寺院から追放される危険を冒すのです。


 だから出かける前に遺言を書き、本、仏像、衣類といった持ち物を、
 この友だちに、あの先生に譲っていく。そしてダライラマとかタンジン
 といった神に祈願し、最後にはトランスに近い熱狂にまで達するのです。


 広場の舞台に上がると、数人の尼僧とともに「ダライラマ万歳!」
 「チベットは自由の国だ!」「中国人はチベットから出ていけ!」と
 叫びました。最前列の観客は急にしりぞきました。
 そして他の観客は突然の人騒がせな見世物に気づき、
 拳を上げて「自由!」「独立!」と叫びました。
 ただ独りズボンをはいて、縁の広い帽子をかぶった尼僧は
 まだほんの子供ですが、十分叫びました。ガワン・サンドルでした。


 デモは3分間続きました。中国の尺度では永遠です。
 108秒間、役者と扇動者、本物と偽者の僧侶が入り混じって
 大騒ぎでした。敵に攻撃をしかけるように、兵士が舞台に飛び上がり、
 デモをする者に襲いかかりました。尼僧だけが「自由チベット万歳!」
 と叫び続けました。僧侶は兵士の制服を見たとたんに
 降参してしまいました。


 1人の兵士が少女に飛びかかり、手首を掴んで腕を背中にねじり
 押さえつけた。まだじたばたするので、もう1人の兵士が殴ります。
 唇には血がしたたり、痛くて顔がゆがんで、もう普通の状態では
 ありませんでした。彼女の周りは混乱とパニックでした。
 尼僧は勇敢に闘い、殴られてもそれに耐え、声を限りに叫びました。
 観衆は静まって、もう誰もスローガンを唱えようとはしませんでした。


 後にその1人が語ったところによれば、兵士たちは尼僧を
 「犬の死体」のように引っ張って、舞台から引きずり下ろそうとしました。
 それでも彼女たちは鎮まらなかった。殴られれば殴られるほど
 「ダライラマ万歳!」と叫びました。兵士たちは彼女たちを
 公園の出口に連れていきましたが、そのあまりの暴力に、観衆の一部も
 とうとう憤慨しました。あちこちで誰知れず叫び声がしました。
 「手加減しろ。虐待するな」しかし政治スローガンはまったく
 叫ばれませんでした。


 尼僧は1人ひとり尋問されました。彼らは「頭」「組織網の長」
 といったデモの最高責任者を突きとめようとしました。
 ところが組織はまったく存在しなかったし、リーダーもいませんでした。
 ただ勇気に押し流された、無自覚な子供たちがいただけでした。


 彼女たちはどんな名前も挙げないし、そんな作戦も白状しないので
 外に出されました。中国人が椅子に座って、タバコを吸いながら
 眺めています。「見せ物」の始まりです。制服を着た3人の看守が
 彼女たちを殴り、石をぶつける仕打ちを始めました。
 彼女たちはたばこを吸う見物人が静かに眺める前で、泣き叫び、わめいた。
 叫べば叫ぶほど看守は殴ります。叫び声は隣の中庭で順番を待っている
 尼僧たちにとって耐え難いものでした。傷ついた身体は
 もう自分のものではありません。頭からつま先まで震えが止まらず、
 ズボンの中で小便をしてしまう者もいました。


 最初の1週間は、少女は毎日3回、尋問を受けました。
 11歳であろうと変りはなく、むしろ逆でした。
 看守は、彼女は若くて理論上はまだ「治る」可能性があるから、
 思い知らせてやろうとしていました。缶詰の缶で殴ったり、
 クランクの箱と同じくらいに恐ろしい電気棍棒で殴ったりしました。


 彼女は中国人が好むもう一つの拷問にもかけられました。飛行機です。
 腕を背中で結び、わきの下にロープを通して、肉屋の冷蔵室のように
 天井に吊り下げられました。1人の男が細長い金属製の帯のついたムチで
 彼女をたたき、縁日の見せ物人形のようにぐるぐる回されもしました。


 逮捕された尼僧は近々ラサの裁判所に出頭する旨伝えられました。
 出頭しなくていいのは、ガワン・サンドルともう1人の年若い尼僧だけ
 でした。残りの12人は「弁護士が欲しいか」と訊かれましたが、
 「いいえ、誰も要りません」と自分の責任を取る政治犯らしく答えます。
 事前に筋書きが決まっている喜劇裁判からは何も期待できません。


 案の定、告訴状を読み、事実とは何の関連もない出来事を列挙した後、
 裁判官は3年から7年の懲役を言い渡ししました。
 最後に「過ちを後悔していますか。控訴しますか」と尋ねましたが、
 1人ひとり同じ答えです。
 「何も後悔していません。ですから控訴はしません」。
 ガワン・サンドルの懲役は1年でしたが、舞台に登って、
 3年から7年の懲役!3分の自由のために、3年から7年の懲役!
 この判決はチベットの恐慌の法外さ、不正義を物語っています。


 1991年ガワン・サンドルが育ったテンゲンリン寺院跡のアパートに
 警察がやってきました。中国人の警官は仏壇に隠されたダライラマの教え、
 独立運動のビラを発見しました。激怒した警官は仏壇を壊し、
 家具を脚で蹴り、食器を割り、天井の木綿布を剥がしました。
 彼らは活動家だった父親のあらゆるものを探しだしました。
 カセット、小冊子、そしてチベットの国旗まで。
 夜のかなりの時間をかけて押収品のリストを作り、カセットを聴きました。
 手錠をかけられたナムゲル・タシは、当分は家に帰って来られず、
 監獄が待っていることを覚悟しました。5年から10年、
 寛大な扱いは期待できませんでした。


 ほとんどの同胞チベット人と同じように、ガワン・サンドルたちは
 ダライラマの亡命先ダラムサラに関して美化されたイメージを
 持っています。不法のもぐりのビデオを見て、生活も、宗教も、
 政治闘争も、何もかもすべてが理想的なうっとりする街を
 想像していました。


 この力強く一つに団結した西洋という神話は、不健全な誤解と、
 民主主義の概念の自分勝手な解釈から生まれており、
 チベットの悲劇の中の最悪なものの1つでした。
 その西洋とは自分たちに都合のいい概念に過ぎず、中身は空で、
 道義上の要求などあるわけもなく、遠く離れた「世界の屋根」のことなど
 どうすることもできません。


 西洋の政府はどんな政府であれ、中国に怖じけています。
 ひとにぎりの少女が拷問されたところで、
 十億人の潜在的なマーケットの気持ちを害したりはしません。
 憤慨するのは、ただ少数の勇気ある者だけです。
 フランスでも他の国でも、党派を問わない国会議員とか、
 そして何よりもチベット人支援委員会のような何十かの団体
 くらいのものです。


 しかしヒマラヤ越えの試練を乗り越えて、亡命者が運よく
 ダラムサラに着くと、彼らが自分たちの不幸を語る相手は、
 チベット支持者である西欧なのです。その結果集められた情報は、
 今では円滑に機能するようになった手段で、世界に発信されますが、
 それは限られた一部の人にしか届きません。
 各国の政府は無関心だし、中国人はなおさらです。


 ガワン・サンドルが出所した1992年。ガワン・サンドルは
 もう1人の尼僧とともに再び「中国人はチベットから出ていけ!」
 「独立!」「ダライラマ万歳!」と叫び、一緒に逮捕されました。
 そして以前と同じことの繰り返し。殴打、叫び、警察の装甲車。
 そしてグツァ監獄の地獄に帰還でした。


 この日拘置所に着いたガワン・サンドルは、もちろん入所手続きを
 覚えていました。最初の中庭、二番目の中庭、尋問室。
 部屋に入ってすぐに、彼女は変化に気づきました。部屋は変らず、
 机が1つに、椅子がいくつか。ベッドが1つ加えられたのは、
 なぜだろうか。看守の休養用?ひょっとしたら・・・・・、
 そう看守の中には、女囚を犯すのを愉しみにする者もいます。


 人権擁護団体は、グツァだけでなく他の監獄でも、若い女囚が
 性的虐待を受けた例を毎年何十も告発しています。
 処女の性器に電気棍棒をさしこむという無残なことも行われています。
 尼僧にとって強姦は、禁欲戒の犯したことと同じで、
 もっとも不名誉な傷なのです。


 判決は4ヶ月後に言い渡されました。懲役3年。
 グツァではなくダプチ監獄でした。父の収容されているダプチです。


 ダプチは、監視塔、3重の塀、安全扉にもかかわらず、
 抵抗の拠点でした。区から区へ情報は伝わり、口伝えの伝達も機能し、
 円滑に機能する組織網が囚人の名簿、見取り図、証言とった文書を
 外部に持ち出しました。外部に持ち出された資料は、抵抗組織が活用し、
 ダラムサラに伝達され、親チベット組織に受け継がれました。
 それとは逆にラジオが一般刑囚の部屋に持ち込まれ、
 ヴォイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・アジアを
 熱心に聴く者がいました。


 少女をはじめ尼僧たちは、大きな期待を寄せる西欧に
 アピールするため、何をしようかと模索しました。
 政治犯は一般にイニシアチブを共同のものにすることが多いので、
 誰がこれを思いついたのかは分かりませんが、
 いずれにせよ1993年初めに、愛国の歌を録音して
 外国に送るという、突飛で素晴らしいプロジェクトに取りかかるのです。


 少女も1990年に逮捕された尼僧のうちの4人も、これに加わりました。
 3区で秘密裏に準備されたこの計画は、14歳の少女にとって、
 その短い人生での驚くべき冒険となりました。


 1人はこう言いました。
 「外にいるあなたたちみなさんは、私たちを助けてくれました。
  本当にありがとうございます。決して忘れません。
  お礼に、この歌を捧げます」。


 もう1人は、
 「お願いです。どうぞ心配しないでください。
  生き長がらえていますし、私たちはみな、
  同じ決心で結ばれています」。

 みんな一緒に、
 「両親に慰めの言葉を送ります。悲しまないでください。
  再会の時は近づいています」。


 16曲とも同じような調子のものでした。
 独唱もありますが数人で歌う曲もあり、
 中国、チベットの民謡から着想を得たものでした。
 13番目は1分以上の独唱で、とりわけ感動的なものでした。


 空から眺める
 空が唯一の景色
 この浮雲は
 両親のように思える
 私たち監獄仲間は
 宝珠(ダライラマ)を探しに行く
  
 殴られてもかまわない
 お互いに組んだ腕は離さない
 東の雲は地平線に留まってはいない
 陽が昇る時がやってくる


 しかし運が尽き、一般刑の囚人が密告しました。
 中国人看守チャンが部屋に飛び込んで来て、激怒した彼女は、
 カセットを掴んで走り去りました。
 彼女らはテレビ集会室に呼ばれます。それは裁判でした。
 裁判所は、尼僧たちに弁護士による弁護を勧めましたが、
 彼女たちは拒否しました。彼女たちは、
 こうした状況の中では、弁護は何の役にも立たないことを
 知っているのです。


 次に1人の判事が、聴衆も驚いた告訴状を読み上げました。
 もう1人の判事が「反革命プロパガンダの流布」と憤慨し、
 尼僧たちに言い渡しました。
 「この理由により、当初の刑を延長する」。
 「リクチョ(ガワン・サンドル)6年」。
 裁判官は最後に、「異議はありませんか。何か言うことは」と
 尋ねました。「いっさい何もありません」と彼女は答えました。


 これから8年をダプチで過ごすことになった
 ガワン・サンドルは、少しも失望の色を見せませんでした。
 叫びもしないし、涙も流さない、ただ冷静な無関心。
 中国の不正義に対するこの上ない挑戦でした。
 「苦しみを断つに至りなさい。正しい道を歩みなさい」と
 仏は教えています。少女は、自分の道を行くのです。


 ガワン・サンドルは、少なくとも義務を果たしたという
 満足感がありました。自由世界向けに詩を録音して、
 「西欧に警鐘を鳴らす」ことが目的だったのでしょうか。
 彼女は成功しました。ヴォイス・オブ・アメリカが歌を
 放送したのです。ダプチで友だちに面会してから、
 1993年秋にインドに亡命した尼僧は、歌を歌った者が受けた
 判決を伝えました。


 即座に、ダラムサラでパリで、ロンドンでベルリンで、
 親チベット団体が14人のヒロインへの不当な処罰を訴えました。
 14歳で、グループ最年少の彼女、父「牡牛」にふさわしい娘は
 象徴となりました。


 歌事件の後、当局は教育プログラムを変更しました、
 中国、チベットの歴史です。特にチベットの歴史を。
 もちろんチベットは常に中国の一部であったと言うためにです。
 それを証明するのは、641年に遡る古い婚姻でした。
 ソンツェン・ガンポ王は中国の文成公主を娶った。
 この結婚が両国を永遠に結びつけ、「世界の屋根」に
 中国文明をもたらした。これは言い古された説です。
 中国はもっと都合の悪い歴史事実に反して、
 数十年来それをふりかざしています。


 しかしガワン・サンドルははっきり言いました。
 中国の公主とチベットの王の結婚は結婚であって、
 それ以上の何ものでもない、チベットはかつて
 中国ではなかったし、将来もそうならない、
 中国はチベットを「解放」するどころか占領した・・・・。


 「もちろん、チベットは独立します。私たちは確信しています。
  もちろん、いつということは分かりませんが、必ずそうなります。
  おっしゃるとおり、私たちは中国人がチベットに来たときには、
  生まれていませんでした。でも、この国はいつか自由になります。
  あなた自身、明日がどうなるかは分からないでしょう」。


 寒かった。雪が降っていた。囚人は震えていました。
 「直立!気をつけ!動くな!」とチャンが叫ぶ。
 少女は従いませんでした。肩を落として、脚を曲げて、挑発しました。
 ガワン・サンドルは、雪の降る中を立ったまま、殴られても、
 侮辱されても我慢しました。


 「あなたたちはみんな、私を困らせるありとあらゆる口実を
  探しているのでしょう。あなたたちは、いつも私に罪を負わせ、
  責め立てる。私の部屋が汚いと言うのなら、
  普通にそう言ってください。」
 こんな大それた反論は初めてだった。
 背丈が小学生より大きいかどうかの17歳の小娘が
 督堂(看守)のぺンパ・ブチに身体で刃向かうなんて。
 少女はもう正気ではなかった。もう止められなかった。


 「友よ、私たちは連帯しています。同じ理由で、
  同じ目的のために、ここにいるのです。一緒に叫びましょう。
  独立!独立!独立!」。


 そして3区は叫び始めました「ポ・ランツェン(チベット独立)!」
 「ポ・ランツェン!」看守たちは、この始まった暴動を
 抑えきれずに慌てました。ペンパ・ブチと他に数人が、
 そして隣の基地の兵士も助勢に駆けつけました。


 武装して反乱鎮圧用の楯を持った70人の兵士に
 尼僧たちは逮捕されました。監獄の幹部の1人が近づき、
 銃口を彼女の方に向けながら、
 『よし、「ポ・ランツェン」と叫んでみろ!
  今日は何人でも撃ち殺してやりたい気がする』。


 ペンパ・ブチは言った
 「ご覧なさい。あなた方は、惨めで醜い乞食のようだ」


 将校1人が3人の兵士をともなって、
 古参者の区画にやってきました。
 全員例外なく殴打されました。
 二度とこんなことしでかしてはならないという警告でした。
 部屋から部屋へと、毛布とシーツを床に投げ捨て
 「5分でベッドをこしらえ、全部整頓せよ!
  お前らチベット人は、人の言うことを全然聞かない。
  共同墓地に埋めるぞ!」


 5分!彼女たちは、とてもこんな短い時間で
 すべてを整頓などできません。兵士はベルトで鞭打ち、
 幹部と将校は脚蹴りし、竹棒で殴ります。古参者は、
 一般刑の2、3人を除いて全員、隔離されている3人に連帯して、
 3人の解放と拘置条件の改善を要求して、
 ハンガーストライキ決行することにします。


 当局はますます当惑し、3区に兵隊を導入しないこと、
 侮辱的な体験を廃止することを約束して譲歩しました。
 彼女たちにとって、兵士や督堂の行きすぎが認められたことは
 すでに勝利でした。しかし3人の解放は問題外だったのです。


 かつてガワン・サンドルとともに拘置され、
 独房にも入ったことがある若い尼僧はこう言います。


 「尋問室の隣の独房に入れられていました。
  部屋は一辺が2メートルと3メートルくらいで、
  天井は高くて4メートルくらいありました。
  壁は白色でした。天井に空けられた窓からの明かりが
  唯一でした。一角に蛇口があり、また用を足すときに
  両側に足を置くためのレンガが置いてある穴がありました。
  しかし汲み取られないので、腐った尿と糞の臭いがしました。」


 「冬の終わりでしたから、とても寒かったです。
  私は制服しかなかったので、凍えていました。
  1つに何も入っていないお茶だけしかもらえませんでした。
  それから1日に1食つまり小さなティンモ(蒸しパン)1つと、
  ご飯と野菜になりました。でも野菜はグツァと同じで、
  汁の中に虫の死体が浮かんでいる吐き気のするものでした。


  それと食事はいつも冷めていて、犬か動物園の檻に入れられた
  動物に持ってくるようでした。ドアに小さな口があり、
  そこにビニールのカーテンがついていました。食事を給仕するのに、
  看守は手を出して私の器に注げばいいことになっていました。
  私を飢えさせて、弱らせようとしていることが分かりました。
  それも、罰の一部なのです。


  週週間前に中国の新聞で読んだ記事をよく思い出しました。
  それによれば、模範監獄ダプチの責任者は、ダプチでは毎日砂糖、
  牛乳入りのお茶を出していると言うのです。
  どうしてこんな嘘がつけるのでしょう。この監獄に着いてから、
  そんな幸せにありつけたことは一度もありません。
  牛乳も砂糖も、自分のお金で買うか、家族が持ってきてくれるのを
  待たなければなりませんでした。
  巨大なペンパ・ブチが砂糖入りのお茶を持って来てくれるのを
  想像できますか」。


 裁判は1時間で終わりました。姉は彼女に近づいて、
 腕に抱きしめ、モモ(チベット風餃子)を渡すことができました。
 少女は泣きませんでした。兵士に押されてジープに向かう
 少女の傷ついた身体から、信じられない、無気味な力が
 発散していました。

 「どうだった。彼女は刑を受けるの?」

 『8年。8年の延期よ。信じられないわ。
  2009年にならないと出られないのよ。督堂チュンカが、
  ガワン・サンドルは「独立!」と叫び、
  看守を敬う気持ちが欠けており、足蹴りしたと言ったわ。
  彼女の証言が決定的だった。それはすべて誇張だったわ』。


 チェンカはみごとに勝って、部屋から部屋に得意顔で歩きました。
 『見たでしょ。「ネズミ」は私に敬意を表さなかったし、
  無礼だったし、手向かおうとしたのよ。結果はこれよ。
  8年の延刑!』

 
 数週間後、督堂の長ペンパ・ブチ自身が少女を部屋に連れて来ました。
 「満足でしょ。8年は、悪くないでしょ」
 少女は、彼女の方に向かい、静かに答えました。
 「そう、満足です。私は決して考え方を変えませんから。
 チベット独立闘争は絶対にやめません。
 ここダプチで、必要なら死ぬまで闘い続けます」。


 この17歳で1メートル50センチ足らずの若い娘が、
 2009年まで生き延びることができるだろうか。
 以前にもまして脆弱になった彼女は、頭痛がし、腎臓が悪く、
 肝機能および胆嚢不全でした。さらに肺に膜がかかっており、
 肺炎が懸念されました。薄く湿った独房での6ヶ月と、
 吐き気のする粗末な食事が、彼女の状態を悪化させていました。
 証拠はありませんが、この隔離期間中に彼女が被ったであろう
 拷問も忘れてはならないでしょう。


 1996年から1997年初めまでの1年少しの間に、
 少女の話は概略でしかありませんでした。
 しかし、親チベットのサークルを超えて徐々にもっと多くの人々に
 知られるようになりました。彼女は「有雪国」の主要囚人となり、
 「チベットのジャンヌ・ダルク」と称され、
 世界的に名が知られるようになりました。
 世界中でいろいろな組織が活動し、ことにフランスでは非常に活動的な
 チベット人支援委員会が、国会議員がガワン・サンドルを守るために、
 彼女のことで政府に質問しました。
 ジャーナリズムも彼女を取り上げたのです。


 決して殺したり、傷つけたり、警官とか兵士を襲ったりはしていません。
 それは決してありません。真の仏教徒である彼女は、非常に非暴力であり、
 彼女の犯罪記録を見直してみれば、彼女が背負わされている刑の
 不正義がすぐに分かります。


 1990年。ノルプリンカの舞台に登って、
 「自由チベット万歳!」と叫んで、懲役1年。武器なし、暴力なし。

 1992年。ラサでデモをして3年の懲役。武器なし、暴力なし。

 1993年。監獄の中で、抵抗の歌を録音して、
 6年の追加刑。武器も暴力もなし。

 1996年。看守に抵抗して、「独立!」と叫んで、8年の追加刑。
 依然として武器はなし、しかし今回は看守に怒鳴る。


 またガワン・サンドルは、釈放される仲間がいると、
 出所を祝うよう気を配りました。カタ(白い絹のスカーフ)を
 お互いに贈りあいますが、少女は感動を隠せませんでした。

 「気をつけてね。いい尼さんでいなさいよ。国に忠誠であってね」。

 92年のある日入獄してきた幼かった彼女は変貌しました。
 今や1人の女となりました。チベットの女なのです。


 5月1日と4日の「五四青年節」は監獄の中央広場で式典が催され、
 赤い中国がたたえられる機会なのです。
 その場所はこうした集会によく適した広大な広場で、
 中央に中華人民共和国の国旗掲揚塔が建っています。
 古株はおそらくその「反革命」精神のために、
 この式典には呼ばれていませんでした。


 ガワン・サンドルは危機のときはしばしばそうであったように、
 勇気をふるいたたせる言葉を見つけました。

 「ここにいたとしても、何かできることがあるはずよ。
  私たちの声が届くように、ガラスを割ってでも!」

 この春の朝、国旗掲揚塔の周りには150人ほどが
 集まっていました。式典が始まります。音楽!参加者の中には
 国歌を歌う者もありましたが、プレイバックのように
 唇を動かしているだけのものもいました。
 赤旗がゆっくり昇りました。囚人も職員も胸を張り出して
 軍隊式の礼をすることになっていましたが、
 職員と兵士が気をつけをしただけでした。


 カンマル寺院の僧侶が怒りを込めて叫びました。
 「チベットは独立だ!私たちの地で、
  中国人は中国国旗を掲揚する権利はない」。
 他の囚人が続いた。「自由チベット万歳!」
 彼女たちにとって事を起こし、男性の囚人を支援するときが来ました。
 「それ行け、それ行け」。少女を先頭に手を鉄格子越しに伸ばして、
 手を切る覚悟でガラスを割ろうとしました。
 古株の区全体が「自由チベット万歳!」という叫び声で振動しました。


 この平屋の長い建物は怒った蜂の巣のようでした。
 女囚たちは閉じ込められた中で反乱し、叫び声が飛び交い、
 ガラスが割れ散っていました。切れた手首から血が流れても、
 何年も前から溜まっていた不満、エネルギー、絶望を発散させて
 叫び続けました。


 兵士たちが彼女たちの方にやってきました。
 全部屋、一部屋一部屋、囚人たちは髪を引っ張られ、
 編み上げ靴で蹴られ、地面を引きずられて
 中庭に引き出されました。今回は80人くらいで、
 全員武装しており、みな恐ろしいほど興奮していました。
 彼女たちは格好の餌食でした。兵士たちはベルトで、竹棒で、
 あまりに強く打ったので、自分たちの手が痛くなり、
 打ち続けるのにひと休みしないといけないほどでした。


 ペンパ・ブチはガワン・サンドルを指さして言います。
 「扇動者はこの女だ。彼女が全部組織したのだ」。
 数人の兵士が彼女を取り巻いた。
 彼女は、祈るように嘆願するように跪きました。
 顔は青くむくみ、腕は血腫だらけでした。
 兵士たちは彼女の顔を、腹を、腰を殴り続けました。
 不屈の人生の中でこんなに憎しみをこめて殴られたのは
 初めてでした。


 彼女の友だちはなすすべもなくリンチに立会い、
 その目の前で彼女は頭に大きな傷を負い、
 意識を失って崩れ落ちました。
 血がほとばしり出て地面に広がっています。
 しかし、兵士たちはまだ殴る、殴る、殴る・・・・。


 それから少女に対する暴行に疲れた兵士たちは、
 彼女をしばらく放っておき、残りの者を中庭の真ん中に集め、
 彼女たちが一生忘れないような最後の「お仕置き」をしました。
 それからまた少女に対する仕打ちがはじまりました。
 彼女たちは、痛くてほとんど立つこともできなかった。
 腹が、背中が、脇が痛みました。
 1人は耳がほとんどもぎ取れており、
 麻酔なしで縫わなければなりませんでした。


 少女はベッドに寝かされました。髪の毛を剃り、
 傷を消毒しなければなりませんでした。
 しかし、穴は直径3センチと大きく、頭蓋骨が見えていました。
 血は止まりません。督堂に知らせて、
 医者を呼ぶ必要があるのだろうか。
 しかし、何も期待できませんでした。シーツを切り裂いて、
 それにバターを塗布し湿布を作り、傷口にあて、
 それでようやく血は止まりました。


 彼女の目が開くと
 「どうしたの、怪我したの。痛い目にあわされた?」。
 彼女の心配事は他の仲間がどうなったかということでした。
 反乱者たちは惨めな状態です。彼らの部屋は、
 監獄というよりは、野戦病院でした。
 緊張が解けると、虐待された体中が痛みます。
 血腫は青くなり、こぶは血で腫れ、半ば閉じた目に
 紫色のむくみができました。いつでも彼女を侮辱しようと
 もくろんでいるペンパ・ブチや督堂たちは喜びました。
 「いいざまだ。死んでも、自分のせいだ。お前が、そう望んだんだ」。


 1998年6月7日の日曜日に、5人の若い囚人が予期せず
 看守に連れて行かれました。
 「どこに連れていくの。彼女たちをどうするの」
 と1人が尋ねました。

 「病院に連れていくのだ」と看守が答えました。
 病院に?囚人が病院に連れて行かれたことなどないじゃない!
 瀕死の場合は別ですが、彼女たちの場合は
 そうではありませんでした。では、どうして?


 翌1998年6月8日、ダプチ当局は彼女たちが自殺したことを
 伝えました。こんな嘘がどうして信じられるでしょう。
 その死が処刑か拷問死であることは明らかで、
 これで春の暴動の犠牲者は11人になりました。
 残念ながら、首吊りによる集団自殺に見せかけた殺人を
 告発する証拠はありませんでした。


 5人の犠牲者の中の親しい者が、インドに亡命している親族に
 宛てた手紙があります。

 「ダプチの囚人が中国人に抵抗し、なかんずくチベットの国旗を
  振りかざしました。その結果、6月7日、6人の尼僧が死にました。
  そう伝えられています。監獄当局は、2人の尼僧は首吊り自殺と
  言っています。そのうち1人は家族のものです。
  他の4人はマフラーを飲み込んで自殺したということです。
  でも本当かどうかは分かりません。
  こんな事件は信じられないことです。


  ダプチの監獄に遺体を見る許可を申請しましたが、
  拒否されました。結局遠くから遺体を見ることができました。
  兄弟が遺体を見にいきましたが、近寄れず、検査もできず、
  触れることなどできませんでした。兄弟は遺体の首に
  絞首の赤い跡があったといいます。
  遺体を火葬にするために監獄から出しました。
  兄弟は改めて遺体を見たいと申請しましたが、却下されました。
  私たちは遺体がどこに連れて行かれたのかも知りません。
  とても悲しかったです。故人の冥福を祈ってください」


 古株のリーダーと見なされたガワン・サンドルがどうなったのか、
 亡命チベット人たちには何も分からなかった。
 間もなくして最初の召喚状がきました。
 それから2度の召喚状が届き、ガワン・サンドルは
 ラサの裁判所に再度出頭することになりました。


 いちばん親しい仲間たちが、もう何度目かになる
 延刑を心配して部屋で待っていました。
 「どうだった」と1人がおずおずと尋ねます。
 「5年」少女は、どうずることなく答えました。
 仲間たちは絶望しましたが、彼女は違っていました。
 
 「そう宣言してから、裁判官は言ったわ。
  あなたはこの裁判所に4回出頭し、3回延刑を受け、
  長い服役になりました。しかし、注意しなさい、
  また繰り返すことがあって、もう1度この裁判所に出頭したら、
  死刑です。すでに法律で許されている範囲を超えていますから。
  次は、私たちにも選択の余地がありません」


 足し算は簡単です。3+6+8+5=22、
 ガワン・サンドルは、2014年に、35歳で、
 その人生の3分の2を監獄で過ごした後にしか
 ダプチを出られないのを知っていました。
 しかし、彼女らしく処罰のことは気にもとめず、犠牲の精神と、
 さらに、常に中国の秩序に挑戦しようという
 自殺的ともいえる決意で自分の道を歩んでいました。


 ガワン・サンドルにはたえず人を魅了する不死身のイメージがあり、
 リーダーとしてのカリスマ性がありました。囚人が出獄するとき、
 荷物を作って、最後の別れを言うのは、いつも少女に向かってでした。
 1999年の春、数人の抵抗活動家の尼僧が出獄しました。
 その1人に、ガワン・サンドルは言います。


 「ねえ・・・・ここでは完全に嘘のチベット史を教えるわ。
  本当の歴史を学ぶことが大切よ。ここを出たらすぐに、
  髪を切って、尼になり、仏教を実践しなさい。
  私はチベットが自由になったとき初めてここを出ます。
  それまで監獄にいるか、さもなければ死んでいるでしょう。
  でも、私のことは心配しないでね」。


 ダライラマは著者の取材に対してこう答えています。
 
 『彼女は「チベット問題の象徴」であり
  「格別なチベットの女」です。まだ最終目的を達していませんが、
  それは時間を必要とし、容易ではありません。
  私たちの目的を達成するには、多くの個人的な活動を
  集積する必要があります。1人ひとりのレベルで考えると、
  目的達成は難しく思えます。しかし、1人の活動が何の影響力もなく、
  価値がないというのは間違っています。
  この闘争は、チベットの外にいる者も含めてチベット人全員の
  闘争です。私たちの努力はすべてこの目的に向けられています。


  当時は、チベットで何が起きているかを知る人は非常に少なく、
  中国人に私たちのことを質問した政府、議会はありませんでした。
  今日、ほとんどのヨーロッパ諸国が私たちのことを知っています。
  フランスをはじめ多くの政府がチベットに関心を持っています。
  中国本土でも変化がありました。より多くの中国人、学生、作家、
  芸術家が、私たちの国、文化に対してより正当な態度を示しています。


  中国人旅行者もますますチベットを訪れています。
  経済的な目的で働きにくる中国人ではなく、観光客です。
  その多くはチベット仏教を真摯に信仰しています。
  自国の政府を批判する人も増えています。
  この肯定的な変化は私たちの努力の結果です。
  ガワン・サンドルがしたように、そしてし続けるように、
  三十年来多くのチベット人が非常な意思をもって、
  死を賭してまでデモをしています。
  これはチベット問題への大きな貢献です』。


 2001年6月、著者はそれを目にしました。
 この日、インドに亡命した、俗人と僧侶の立場を超えて、
 インドに亡命したかつてのダプチの囚人40人ほどが、
 著者たちを山のせせらぎの近くにピクニックに招いてくれました。
 何ヶ月も、何年も前から、こうして仲間だけで集まりたかったのです。
 このかつての囚人たちの団結の強さから、仲間というより、
 家族といったほうがふさわしいでしょう。


 決められた日の土曜日、広い草原に大きなチベットテントを
 張りました。そして食べ物、遊び道具、バトミントンのラケット、
 ボールを取り出します。この再会は淡々としていて、
 陽気さと哀しみがまじり、感動的だったそうです。
 もちろん、ガワン・サンドルのもっとも親しかった友だちや
 ダプチの脱獄者と、ガワン・サンドルのことを
 たくさん話し合いました。午後になって彼女たちは
 1998年の暴動からしばらくして3区で書かれた歌の歌詞を
 口ずさみはじめました。それを聞きながら、全員の目が涙で潤みます。
 バドミントンをしていた者もそれをやめました。
 せせらぎの音と尼僧の歌だけが聞こえていました。


 1998年5月1日
 心清らかな政治犯は
 真実のデモをした。

 山のように汚れのない清らかな心の持ち主は
 不幸なチベット人民のために努力を尽くす
 そして今、心もなく、信仰も、法律ももたぬ者が
 私たちを独房に閉じ込める

 何と哀しいことか!

 寒さと、飢えと、恐怖に苦しむ
 火と、水と、飢えの地獄
 政治犯はこの地獄の中

 何と苦しいことか

 心もなく、信仰も、法律ももたぬ赤い中国人は
 恥じらいもなく、躊躇することもなく、チベットを占拠する
 彼らは傲慢と利己主義に満ち
 ラマから弟子を引き離す

 何とチベット人は不幸なことか

 天の神よ、私たちを慈悲で祝福し給え
 苦しむ私たちを、そして直に真実を与え給え
 私たち全員が一緒になれますように
 仏に、法に、僧に祈願したてまつる


 一読して拷問の苛烈さ、そして共産主義の名のもとに
 行われた数々の弾圧、それを際立って感じさせる内容でした。
 中国政府の発表では、併合によってチベットが発展したと
 いわれていますが、近代化したチベットにあっても、
 その富の90%は中国人が握っているのです。


 そんな中、ただ広場で「独立!」「自由!」と叫んだだけで
 3年から7年の懲役なのです。獄中では数限りないほどの
 人権侵害が行われていました。拷問、思想改造、性的虐待、処刑。
 そんな中でも希望を捨てずチベットの独立を訴え続けた
 ガワン・サンドルの非暴力抵抗運動は、読むものに
 勇気と不屈の精神を感じさせます。


 ガワン・サンドルは、身も心もボロボロとなり
 獄中での死を覚悟していたようです。
 しかし、嬉しい知らせもあります。
 2003年3月28日、ガワン・サンドルは治療目的により
 ダプチ監獄を釈放され、治療中なのだそうです。


 これは、親チベット団体や、西欧各国政府の貢献なのですが、
 日本においてはまだまだチベットに対する関心は低いようです。
 中国政府は常々、日本に対して戦時中の人権侵害を
 虚実入り交えて非難します。しかし、中国政府は、
 今この瞬間にも、人々を弾圧し粛清し、
 人権を踏みにじる行為を行っているのです。


 もはや権力闘争に明け暮れる日本政府に期待を持つのは
 無駄だと思いつつも、こういう問題こそ日本は
 アジアのイニシアチブをとり、赤旗なびく共産主義のもとに
 抑圧される人々に手を差し伸べるべきだと思います。


 もう1つは、日本において「人権」を声高に叫ぶ、
 様々な人権団体、市民団体、活動家の方々はこういった
 隣国の人権侵害において、なぜこれほどまでに
 鳴りをひそめるのでしょうか。これらの人々にとって人権とは、
 何かしらの利害を含むものなのか、一定の人々たちの間だけの
 ことなのか、その思想の根本を考えると、
 これら団体や活動家たちの思想の偏向ぶりを
 感じさせられてしまいます。


 総じて我が国の隣国である中国における、
 これほどまでの苛烈な弾圧、
 そして人権を無視するような行動は、
 中国という国そして共産主義というものの、
 現実を感じさせるような思いがしました。

 ※ガワン・サンドルさん釈放の記事
 
 
 ※ガワン・サンドルさんのラジオ局インタビュー

囚われのチベットの少女
囚われのチベットの少女
今枝 由郎

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2009年01月01日

負け組ジョシュアのガチンコ5番勝負!

《著  者》  ジョシュア・デイビス 著 
              酒井泰介 訳                        

《出 版 社》  早川書房 (ISBN:4-15-050309-5)

      《価  格》  735円(税込)

      《著者紹介》
       
       ジョシュア・デイビス

       処女作である本書執筆中に「ワイアード」誌の
       取材でイラクに潜入取材を敢行。今は、同誌の
       コントリビューティング・エディターを
       務めるほか「GQ」などにも寄稿している。
       妻のタラとともに、サンフランシスコ在住。
 
      《目  次》

      序 章 思い出のイプスキ・ピプスキ
      第1章 僕は米国代表選手
      第2章 なんちゃって闘牛士
      第3章 どすこい一番!
      第4章 後ろ向きに走って世界を獲る!
      第5章 灼熱サウナで家族円満
      終 章 イプスキ・ピプスキは生きている


 30歳目前で安月給のデータ入力係のジョシュアは、
 体力も力も他人に自慢できるこれといった生きがいも無い、
 そんなジョシュアはヤケで出場した腕相撲大会で全米4位になります、
 といっても4人しか選手がいないだけなのですが、
 これに開眼したジョシュアは付け焼刃の講習で
 スペインの闘牛士を目指したり、その他にも相撲や後ろ向きマラソン、
 耐久サウナコンテストなどに挑戦していくといった内容なんです。


 この体験記は一見笑いを誘うような話にも思えますが、
 確かにジョシュアの向こう見ずな挑戦は滑稽ですが、
 ジョシュアがそれほどまでに、自分のアイデンティティーとなるものを
 追い求める姿は、心の奥底に秘めている自分の生きる意味とか
 何のための人生なのかということを思わず考えさせられてしまいました。


 かつてのジョシュアもそうであったように、
 子供の頃というのはたくさんの冒険物語に心躍らせたり、
 TVや本に出てくる偉人や有名人のように、
 きっと自分もそうなれるだろうと、根拠も無くそう思っていました。


 しかし、子供たちは学校というものに入った時点で社会や
 人間関係というものに直面し、自分はただのその他大勢の1人であって、
 特別な才能や本に出てくる冒険家のように、たぐいまれな勇気や、
 機転のきくひらめきやアイデアもない人間だということを学んでいきます。


 さらにジョシュアのようにアメリカで生まれ育ったのならまだしも、
 日本という国では出る杭は打たれるの例えがあるように、
 個性よりも集団生活とか協調性とかを重視させる文化にあるから、
 なおのこと子供というのは自分のアイデンティティーを見失ってしまい、
 ある者は人を押しのけてでも前に出るすべを身につけ、
 ある者は集団の一部となることで他人との距離の取り方を知る者、
 そして自分の個性も希望も生きるすべも見失い孤独に身を投じる者、
 多くの子供たちがその頃には子供の頃のあこがれやほのかな希望も
 忘れてしまっています。


 ジョシュアのお母さんもかつては全米ミスコンテストで4位になるなど、
 輝かしい未来が待ち受けているかと思えましたが、
 不運にもその後の人生はは銀幕のスターやトップモデルでもなく、
 2度の離婚と3人の子供を持つ貧しい家庭の母親でした。


 2度の離婚に3人の子供そして貧しい家庭が不幸なわけではないのですが、
 彼女も夢や希望や運といったものから見放された人生でした。
 そんな母は自ら成し得なかった夢や希望を託すように、
 ジョシュアに対しては夢や希望はきっとかなうものだと教えて育てました。
 そんな彼だからこそ自分の存在する証明をするかのように、
 人が見向きもしないような大会に夢を託し果敢にも挑戦していくのです。


 そこにはジョシュアと同じく、マイナーな大会であるにもかかわらず
 自分の存在意義と、夢や希望といった目標のために、
 貧しい生活の中でも自己鍛錬とストイックな生活を送る者たちがいました。


 付け焼刃の練習ですからジョシュアは全ての大会で
 優勝することはできませんでしたが、その中で家族のこと自分のこと、
 そして今まで自分が追い求めてきたことに対する小さな答えを見出します。


 それは喧嘩ばかりの母親の優しさや夢や希望の前に
 現実的なことばかりを口にする妻の愛情、
 そして優勝しなくても自分は自分だってことをです。


 タイトルの負け組という言葉は僕はあんまり好きではないんですが、
 ジョシュアのように負け組と自負しながら、目標に突き進む姿と、
 色々と口は出すけど結局はジョシュアを温かく見守っている
 妻や家族の面々は、みんながみんなお互いを支えあい
 貧しくとも心は豊かなのだろう思わせます。


 なんだかマジメなことばかり書きましたが、
 全体を通してこの体験記はジョシュアの軽妙な文章とツボ得たツッコミで
 随所に笑える箇所が幾度もあります。


 マイナーで変わった大会であればあるほど、
 登場する人々も個性的な人物ばかりで、
 部外者から見たら思わず笑ってしまうこともしばしば、
 それぞれの大会についても日本との接点も多くあり、
 色んな大会で世界で活躍する日本人の話も出てきます、
 相撲の話では現役時代の横綱武蔵丸も登場したりします。

 笑って笑ってその後に心の中にじーんと温かさがしみてくるお話でした。

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posted by hermit at 17:45 | Comment(0) | 海外(本)
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