2010年02月04日

びんぼう自慢@五代目古今亭志ん生

本書は昭和の名人五代目古今亭志ん生の回想を聞き書きした内容です。ですから、本書も江戸っ子らしいべらんめえ口調そのままで、まるで志ん生の落語をそのまま文章化したような、軽快な語り口です。さて芸人の世界では「飲む・打つ・買う」というのは芸の肥やしとして、もはや当然のことのように語られています。しかし、この古今亭志ん生という人はスゴイ!!今の若者がだらしないとか言われるけれど、そんな若者だって引いてしまうような内容です。正直、こういう奔放な芸人さんの感想を書くのは難しい。豪快とも違うし、だらしないというのも違う。ただいえるのは、この五代目古今亭志ん生という人は、生来の落語家であり、恐らく落語以外で生きることはできなかっただろうなと思います。この志ん生という人は1890年生まれの方なので関東大震災や戦後のおりには、寄席がなくなり落語以外の仕事をしていたそうですが、やはりどの職業も身につかず、やっぱり落語に戻ってきます。

何より飲む・打つ・買うの三拍子が半端ではなく、今時の芸人たちが女性や酒などの失敗談を笑いのネタにするような程度の話じゃありません。この志ん生という人、飲みたいあまりに、仕立ててもらった紋付や袴などを受け取ると、その足で質屋に行き、そのお金で吉原へ放蕩に出かけるのです。さらには真打興行だからと寄席小屋の主人から大金を借りると、その足で吉原で遣いはたす。当日になるとそりゃあ大変で結局、ボロの古着の紋付を着てめでたい真打興行を行ってしまいます。

何より志ん生が志ん生へとなりえたのは、長年志ん生を下支えしたその奥さんのおかげでしょう。志ん生の奥さんは、どんなに志ん生が放蕩しても文句ひとつ言わなかったといいます。飲みに行くといえば黙って酒代を出し、吉原へ行くといえば自分の家財道具を質に入れてまでお金を工面する。志ん生といえば、お金がなくなるとそれこそ何でも家のものを売ってしまいます。そのせいで、名人になって持ち家に住むまでは、夜逃げの連続だったといいます。それは子供が生まれても変わらず、子供が病気になっても薬代が工面できず塩水を飲ませてしのいでいたほどです。それでも奥さんは文句一つ言わず志ん生を支え続けました。

晩年志ん生は、本書を書くためにこのような日々を回想しながら、自分はまるで落語の「替り目」だと話しています。酔っ払った亭主が酔った勢いで妻をなじりながら、その口でこんな美人で器量良しの嫁は自分にはもったいない。本当にありがたいことだ。本当におまえをもらって良かったと話してしまう人情噺です。本書を書くに及び志ん生が、長年の貧乏話を話すのを横で聞いていた妻は、思わず突っ伏してどっと泣き出したといいます。若い時分の赤貧洗うような貧乏時代を支え続けた奥さんにとっては、その後志ん生が名人と呼ばれ国から勲章までもらうようになるまでになったことに、深い感慨を覚えたのでしょう。

奥さんだけでなく、当時の落語の世界の寄席仲間たちの支えもあり、奇人変人と呼ばれた噺家の逸話も多数書かれています。さらには貧しいなめくじ長屋時代での住人たちの助け合い、戦中物資不足の日本から酒呑みたさに満州へ渡り、ソ連進駐後の満州でも生き延びることができたことなど、どんなに貧乏でも仲間に助けられ、志ん生の人生とはひとえにたくさんの人に恵まれていたことにあります。

落語の演目には志ん生の生き方をそのままなぞった噺も多く、志ん生自身もまるで自分の生き様のように演じることができたといいます。名人になった志ん生にとって幸いだったのは、その放蕩生活や赤貧生活が実際に芸の肥やしになったことです。子供たちも皆、落語の道に進み真打にまでなっています。

最晩年、半ば引退状態の志ん生はそれまでの不摂生がたたって脳溢血で生死の境を彷徨っていました。もちろん病院なので酒もたばこも禁止です。そんな志ん生は息子の馬生が見舞いに来るとこう言います。

志ん生「おい、お前は親孝行かい?」
馬生「そりゃぁ、お父さんご存知のとおりだよ」
志ん生「親孝行ならば、ダマって酒ェもって来てくれ」
断った馬生「親孝行がこんなにこまるもんだとは、知らなかった」

それではお後がよろしいようで。

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2009年11月02日

チャップリン自伝−若き日々

喜劇王チャップリンの若き日々を回想した自伝です。本編にあたる全人生の自伝の中では1章から9章までの日々をとりあげています。幼い頃から無声映画で成功するまでですね。チャップリンの人生は波乱に満ちそこからも面白いのですが、本編は若き日々にスポットを当てています。

イギリスの下町で生まれたチャップリンの一家は、両親と兄とチャップリンの4人家族で両親とも役者でした。しかし喉をつぶしてしまった母が演劇界から引退し父とも離婚し、その日暮らしも難しいような貧乏生活となってしまいました。父は元来からの役者らしく給金をすべて酒やギャンブルにつぎこみ家庭を省みることもなく、それも離婚の原因だったといいます。

初舞台は5歳。母にたまたま舞台出演の機会があったことから起こったできごとですが、当然声のしゃがれた母は観客のブーイングによって舞台を降りざるをえなくなり、とっさの機転で舞台へあがったチャップリンはおどけた調子で人気役者の真似事をするといった滑稽な姿が客にウケその場を取り繕ったといいます。

もともと母が現役の頃、チャップリン生まれて間もなくから楽屋にいることが多かったためチャップリンにはもとより演劇の世界を生まれながらになじんでいたようなものでした。しかし、それからも長い間の貧乏暮らし、母の内職がうまくいかず家賃の安い部屋を転々としていきました。生活がいきづまり兄弟とも貧民院に預けられたことすらあります。

やがては母の様子がおかしいことに気づきます。母は発狂していました。前述の貧民院と母の発狂はチャップリンの一生において心に暗い影を落とします。つかの間の幸せは母との面会でした。何気ない会話や抱きしめてくれた温もり。母そして兄との絆はチャップリンの生涯において最も大切なものでした。

やがて子役として旅芸人一座に加わった頃から、その後の喜劇王の片鱗を見せ始めます。批評家たちは、たとえ演目自体を酷評しても必ず子役のチャップリンだけは賞賛することが多くなります。それから子役として徐々に大きな劇団へとキャリアを積んでいきます。さらにチャップリンはしたたかでもありました。自分を客観視できることで、自分を決して安く売りません。そのため出演交渉も時にはハッタリをきかせつつ自分を高く売り込むこともしています。

劇場での出演が多くなると、どうしても家族と顔を合わせる時間が少なくなってしまします。子供たちを溺愛していた母にとっては息子の名声よりも側にいてほしかったのです。母の寂しそうな顔や入退院を繰り返すたびに心を痛めるチャップリン、ですが肌身に染み付いた演劇の世界はどうしてもチャップリンを魅了します。

やがてフランス・アメリカでの公演でまずまずの成功を収めたチャップリンは、アメリカに拠点をおいて役者として活動することを決心します。その頃はまだ映画草創期の無声映画時代で、飛んだり跳ねたり追いかけっこするような単純明快な喜劇映画の中で、チャップリンだけは舞台でのパントマイムなどの演劇手法をもちい、たちまち世界を席巻し若き喜劇王の名をほしいままにしていきます。

ハリウッドもブロードウェイもチャップリンに熱狂的な喝采を浴びせました。しかし、若き日々最後のチャップリンは、成功者のチャップリンではありませんでした。それは映画の中の若き喜劇王のチャップリンであり、個人としての信ずるに値する友がいない孤独なチャップリンの悲哀だけだったと結ばれています。

本書には幼い頃から幼少期までの悲惨なまでの貧しさの描写が半分近く割かれて書かれてあります。その中で唯一母と子の場面だけが全編中最も救いのある幸福感につつまれた場面です。さらに若き日々の甘酸っぱいような恋の話もいくつかあれば、かつての父のように飲む打つ買うの芸人らしいチャップリンの姿も描かれています。そして映画会社での困難、チャップリンは自身の思い描く映画を撮るため幾度も会社を変え、経営者やスタッフとの衝突もたびたびだったことが描かれています。

総じて全編においてチャップリンの孤独感がどうやっても埋められないほど深かったかというのが分かります。草創期の映画史また近代芸能史のひとつとして読まれるのもいいですが、ひとりの喜劇人の孤独な人生として読むと、チャップリンにとって成功より求めるものとは何だろうと考えてしまいます。それはもしかして生活に困らない程度の食事と暖かい家族の幸せだったのかもしれない、などと考えてしまいます。

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2009年10月29日

名人に香車を引いた男−升田幸三自伝

まず面白かった!!読み出したら一気にぐいぐい読ませる自伝というのは珍しいです。将棋の世界というのは聖(さとし)の青春もそうでしたが人間ドラマが満載です。

聖(さとし)の青春 (講談社文庫)

本書は将棋史上初の三冠王(当時はタイトルが3つしかなかった)そして「名人に香車を引いて勝った男」升田幸三の聞き書きによる自伝です。少年時代博打打の父と優しい母の家庭に育った升田少年。14歳で物差しの裏に「名人に香車を引いて勝つ」と書置きひとり家を出ます。

広島にたどりついた升田少年は大道将棋荒らしや住み込みで働きながら、人づてに大阪の木見八段門下となります。長くの下働きの末めきめきと頭角を現す升田。木見八段の受けの将棋に対して升田の定跡にこだわらない攻め一本の将棋は門下の中でも異彩を放っていました。同時に終生のライバル大山康晴は弟弟子として入門しています。

その頃大阪には誰もが知る伝説の棋士とまでいわれた坂田三吉も老齢ながら健在でした。将棋指導先で偶然升田は三吉と出会います。三吉は升田の指す将棋をしばらく黙って見つめていました。そのうち升田の棋譜を見たいと言い出します。そして三吉はこう言った。「木村を負かすのはあんたや」そして「木村の将棋はちっさい将棋や」当時木村義雄はまだ名人位をとっていなかったがやがて木村が覇者となり木村時代がやってくることを予見していました。そしてまだ7段にもなっていなかった升田が木村を打ち破ることすら。升田はこう語っています。知られている坂田三吉という人は破天荒で晩年は悲惨なものだったとありますが、実際は小奇麗で品のある人でした。しかし、升田は木見門下です。それは三吉もじゅうぶん分かっていて、直接将棋の指導をすることはなかったといいます。

かくして升田にとって木村は宿敵、本人は怨敵とまで言っています。そして月日もすぎ、木村は三吉の予見通り名人となり関東将棋界の覇者となります。升田も関東一の将棋指しと言われていた頃、新聞社が企画で初の対局が実現したのです。升田はその時の様子をこう語っています。

「盤上の着手もまた、いつになくはげしかった。待ちの木村、受けの木村が、玉の囲いも不完全なまま飛車先に銀をぐいぐい突進させてきた。(中略)死力を尽くしての攻め合いです。『エイ、行っちゃえ』と声をかけ名人の顔つきも晴れ晴れしとる。面白いことに、どっちもオレの勝ちだと思っておるんだ。」

升田は気合充分で望んでいた。そしてついに木村はポカをおかしてしまった。
「君と指すと、妙に見落としが出る。闘志に押されるんだな」こう言って名人は嘆息した。勝負は升田の勝利でした。戦後再び新聞社主催の木村対升田の五番勝負が企画されましたが、これも升田の三連勝となります。しかし、この連勝を関東将棋界は良く思っていませんでした。

やがて升田も八段となりますが招集され戦地でどうにか生き残り、終戦と共に帰還することができました。しかし、その間に将棋界でめきめきと頭角を現していたのが、弟弟子大山康晴でした。升田は戦地で十二指腸虫という回虫に寄生され前のような健康な体ではなくなっていました。そんな中でも升田はA級順位線で一位となり名人戦への挑戦権を得ます。しかし、主催する毎日新聞社の意図でルールの変更がなされます。それは皮肉にも七段の升田が木村名人にたて続けに勝ったことで、A級1位の升田と七段1位の大山に挑戦権の決定戦を行うというものでした。しかし、それは朝日新聞の所属の升田に対して毎日新聞所属の大山をなんとか名人戦に出させたいという思惑があったのです。

升田は病身でした。できれば温暖な場所を対局場所へと申し入れたにも関わらず、決定した場所は冬の高野山。これが升田生涯忘れえぬ無念の「高野山の決戦」なのです。升田はやっとのことで駒を指すというほどで、何とか五番勝負の二勝二敗にもつれ込みます。最終戦は疲れもピークに達しそして敗北しました。事実上の名人戦とも言われた高野山の決戦は大山康晴の勝利だったのです。これ以後二人のことは「宿命の兄弟弟子」と呼ばれることになります。

戦地で体験した極限体験を通して升田の人間性も将棋も変わっていきました。その頃名人戦の主催は他の新聞社に変わり、毎日はその穴埋めとして王将戦を企画します。升田はそれにも勝ち進みそしてついに大山との決戦に勝ち王将戦の挑戦権を得るのです。王将戦は「指し込み」を看板にして発足したといいます。タイトル保持者と挑戦者は三番手直りの指し込み戦でした。一方が三番勝つとタイトルの獲得が決定し、同時に指し込みが成立する。つまりタイトル獲得者は香車を引き敗者は何も引かず勝負するというのです。これは毎日が名人位より王将位が上だという意思表示だったのです。

升田の相手は木村名人でした。実は以前、升田と木村は名人戦で相対し二勝四敗と負けているのです。ですから誰もが木村の勝利を確信していました。そしてこの王将戦、升田は迷っていました。もし自分が3連勝して指し込んで勝てば名人位が失墜してしまうし、敗者にとっても大きな汚点を残すことになるからです。しかし皮肉にも升田は木村に三連勝してしまうのです。それは升田の「名人に香車を引いて勝つ」ということが実現できることでもありました。

しかし世に言う「陣屋事件」が起こるのです。指し込み戦当日、升田は陣屋に行ったものの、陣屋旅館の無礼な態度に(と本人は語る)機嫌が悪くなり、とうとう勝負を放棄してしまった。これによって升田は1年間の出場停止処分を受けます。しかし升田に同情する声も多かったようですし、何より升田が怨敵とまで言った将棋連盟の理事長を務める木村理事長の度量で処分は取り消しとなります。木村はかつて坂田三吉との勝負でも連盟の反対に合うものの、連盟を退会して個人としてでも勝負したいと、一方では度量の深い人間でもありました。

その頃の升田はまさに指し盛りという最も脂の乗った時代でしたが、過去に幾度となく体を壊し盲腸では死線を彷徨う大病やその時も回虫によって体力は見るからに衰えていました。そして1年の欠場と休養を自ら決めます。一切の将棋から離れつつ、趣味であった囲碁を楽しむ日々は心身ともに安らかな日々であり、この時のことを振り返った升田は、一番の恩人はその間の生活を支えてくれた妻だと話しています。この1年で升田は変わりました。攻め一方だった将棋が受けつつ熟考し基本の攻めはそのまま、それからの升田はそれまでにもまして『新手一生』の旗印通り升田定跡と呼ばれる新しい攻め手を後世に残すことになります。

復帰後の将棋界はすでに弟弟子であった大山康晴の大山の時代といわれていました。升田は新聞紙上に大山将棋の長所と短所という事実上の挑戦状を寄稿します。

「長所は短所と背中合わせというが、大山将棋の最大の短所は、駒の損得にとらわれ、勝負のチャンスを逸することである。世間では現在の成績から技術的に大山君は他を引き離しているように見ているようだが、私はそうは思わない。今期名人戦の挑戦者であった高島八段も、二対四で退けられたけど、勝った二局は完勝であり、技術的には大差を認めないと語っている。われわれは名人の体力と、辛抱強さに敗れるので、技術的に差がないのと感じるのは当然であろう。

大山君には自分の受けに対する過信がある。駒得をすればよいという観念と、貯蓄的な性格が彼に大局観を誤らせる原因となっている。名人を破るには、この弱点をにらんで指すのが第一で、第二は日常生活において、彼の忍耐力に負けない克己心を養うことだと思う。」

やがて第5期王将戦の挑戦権を得た升田はついに大山名人との運命の対決を決することになるのです。年末の第一局、千番の升田は棒銀から3八角の新手を出して勝ち、第二局の矢倉戦にも勝ち、第三局も苦戦しつつも勝った。そして王将のタイトルを得、指し手となりついに念願の「名人に香車を引いて勝つ」チャンスがめぐってきます。

「この、盤上から香車をはずす瞬間の気持ちは『うれしい』以外に言葉が見つかりません。立会人から開始の声がかかるまで、うれしさで胸が締め付けられるようだった。

八段が名人に香車を引く。四百年の将棋史を通じて、はじめてのことです。そして、王将戦が指し込み制度を廃止してしまった現在、今後こんな事態は起こるべくもない。(中略)この第四局ですが、〈空前絶後の譜〉としたのは、まさにそうに違いないからです。

(中略)香落ち戦は下手が絶対優勢、必勝に近いものなんです。(中略)大山君は居飛車ながら急戦に出ず、旧法通りの定跡を選んできた。そのため私は『3四銀型』が上手の理想形だ、というのが私の考えです。理想形を与える前に、下手は仕掛けなくちゃいかん。

そういう私の主張を、大山君が知らんはずはない。いや、知っておるからこそ、わざと3四銀型に組ませたかもわからん。相手に十分組ませ、そのうえでやっつけてやろうというんで、以前、石田流はダメだと断定した木村さんに、私が石田流で挑戦した、あれと一緒の気合ですね。ああ見えても大山君は、猛烈な意地っ張りですから。

『時の名人に香を引いておるんだ、勝負になりゃいい、一手違いに持ち込めばそれで良いじゃないか』という気分だった。大山君のほうが(中略)勝っても誰もほめてくれない将棋を指すのがどんなにつらいか心中察するに余りある。」

将棋は1筋、2筋の攻防で大山名人にミスがあり勝負どころで升田が読み勝ちました。ついに名人に香車を引いて勝ったのです。空前絶後の一局は升田の制するところとなった。駒を投じた大山名人は、うなだれていた。升田も盤上を見つめて無言だった。大山名人の悲痛を知る升田、開局の時のうれしさはなかったといいます。そして後年には升田は朝日の名人戦と読売の九段戦も毎日の王将戦も制し三冠王となりました。しかし後年の升田の体はみるみる弱っていきます。最後は八段落ちしないようにと順位戦だけに専念しました。升田はまともに駒さえ指せないほどで、正座ができず、ひと指しごとに横になり体を休めながらやっとのことで指していました。昭和54年4月末の連休前の引退直前には対局を休みがちになり、十二指腸潰瘍の持病とともに、数年前から肺結核、糖尿病と色んな病気に蝕まれていました。

升田は現役時代のもっとも充実した勝負について、大山康晴の挑戦を受けた第十七期名人戦をあげています。自身でもかつてないほど冴えていたと語り、必勝の自信を持っていたと語っています。その第七局を〈わが最高傑作の譜〉として、将棋史を飾る名勝負だったとしています。

本書には升田の生涯を彩る名勝負の将棋の棋譜が同時に収められています。実際に将棋が好きな方はご覧になられるといいでしょう。しかし、将棋がそれほど分からない方が読んでも十分面白い、この升田幸三という人物の破天荒さそして「ホラの升田」「ポカの升田」とあだ名される通りの痛快で豪快な話が満載です。

さらにざっと紹介を書きましたが、升田の人生の分岐点となった勝負の数々のやり取り、いわゆるお互いのかけ引きや心理描写にはうなります。そして升田が愛される理由としては、あれほど怨敵や宿敵とまで言っている。木村義雄や大山康晴に対しても、どこか懐かしむような同じ時代しのぎを削りあった、仲間や同志といった愛情が感じられること。勝負の場面では相手のことをこれでもかと言いつのりながらも、やはり自身もそうであったように敗者にはそれ以上のことは言わない。あくまで盤上の勝負のみで、後はもちろん同じ志を持つ棋士として酷くは言いません。

弟弟子であった大山康晴名人にはたとえ宿敵やライバルと語っても、元は木見門下時代に稽古をつけてあげた頃のことを懐かしく語り、怨敵とまで語った木村義雄名人に対しては、その引退において目標を失ったような寂しさを感じたと書いています。最初に書いたように升田の母は優しい人でした。勝った升田より負けたほうを心配するような人だったといいます。母はそんな升田に勝ち負けの世界で生きるのはやめてほしいと常々話していたらしく、升田もそれゆえ敗者に対してそこまで言わなかったのかもしれません。

余談ですがずいぶん前に漫画雑誌に月下の棋士という連載があって、私も長く読んでいたのですが、本書を読むとこれが下敷きなんだなと分かります。漫画のほうは名前を少し変えていますが、本書の升田幸三も大山康晴も木村義雄も出てきます。確か主人公も名人に香車を引いて勝負する場面があったはずです。

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ですから月下の棋士を読んだことがある人ならば、本書の登場人物一人一人がキャラ立ちして想像できるかもです。本書も升田幸三の口語体で書かれているのでとても読みやすいので、合わせて読むと一種将棋ライトノベルチックに面白さが倍増します。随所に升田の逸話“大山いびり”や“高野山の決戦”“怨敵木村との五番勝負”“陣屋事件”そして、その名を知らしめた“名人に香車を引いて勝つ”といったものが読み進みながら次々とでてきますから、まさに少年ジャンプ的展開いやライトノベル的展開といいましょうか(最近のラノベは分からないけれども)、それにしても昼過ぎから読み出したら休めないほど展開が面白くてあっという間に読んでしまいました。

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2009年08月29日

ヒロシマ・ナガサキ二重被爆

広島と長崎での原爆被爆の死線をくぐりぬけそれから90歳を迎えるまでの著者の手記です。著者は三菱造船所の設計技師として赴任先の広島で被爆し、重度の火傷を負いながらも命からがら戻った長崎でも間もなく被爆します。その状況とその後の人生を巧みな筆致で描いています。

長崎の裕福な家庭に生まれ育った著者は幼くして貧困とは無縁の生活でした。外国交易の盛んな長崎ならではの英語教育も当時としては学ぶことができ、それがその後の人生に大きく影響します。しかし、子供時代に父の放蕩に悩んだ母の自殺、そして少年時代の家業の破綻などによって著者の人生は大きく変わります。当時は日を追うにつれ軍国主義の色合いが濃くなる世の中でした。青年時代の著者は自由闊達な気風だけに、自由が制限されていく風潮を敏感に感じていました。同時に、家業の破綻によって著者には退学が迫られていましたが、自分で学費を稼ぎながら勉強していくことになるのです。

卒業すると三菱重工において設計技師として働き始めます。三菱重工を擁する長崎港は軍港として戦艦武蔵や土佐を建造するなどの軍需産業の主要拠点でした。当時多数の男性技術者は兵士として徴用されていたため、著者のような若手技術者も設計の第一線に出ざるをえず、主に商船や客船の設計に携わっていたそうです。そんな著者にも鉄不足による船舶の軽量化や強度の簡略化、また入港する破損した軍艦の増加や民間船の減少は、戦況の悪化を感じさせるには十分でした。

1945年になる頃には深刻な技術者不足で徴用は免れたものの、全国の造船所を飛び回ることになるのです。そして8月6日、著者は2人の長崎からの技術者と共に広島の朝を迎えるのです。原爆投下前の広島市は空襲の被害もそれほど無く、静かで平穏な都市だったといいます。

広島でのその朝はちょうど著者が長崎への帰途ため挨拶まわりに行くバスに乗る予定でした。同じ他の者は予定通りバスへ乗り込みますが、著者だけは時間に遅れ1便乗り遅れ、会社内で待っていることにしていました。それが著者の生死を分けたといいます。その瞬間は青白い閃光と共に膨張する大火球を著者は目撃したそうです。猛烈な爆風と熱線が著者を襲い気がついた時には、全身に重度の火傷を負い皮膚が溶けて垂れ下がっていたといいます。しかしそれでも痛みは感じず、全身が麻痺しているように感じ、自分がどのくらい傷を負っているのかさえ分からない状態だったといいます。生き残った職員たちと避難の際に見た広島の状況は言語に絶するものだったといいます。爆心地付近では死体すらなく蒸発したと分かる人影だけが残り、白骨と遺体がそこかしこに散乱していたといいます。特に防火水槽や川には遺体が折り重なるように積もり、著者はそれを人間の筏と表現しているほどです。

遺体を掻き分け命からがら救護列車で長崎へ着いたのが8月8日でした。家族はその変わりように著者を判別できないほどだったといいます。火傷には大きな水ぶくれができており、それを割るとまるで水風船を割ったように大量の液体が流れたといいます。8月9日、著者はまだ起き上がるのもやっとの中、広島が壊滅したことを知らせるために会社にいました。しかし、広島での新型爆弾を話せば話すほど、当時としては現実からかけ離れすぎていて上司すら信じられない様子だったといいます。

そんな中の11時2分。著者は会社の事務所で窓の外からの青白い閃光が再び自分の辺りを包む様子を目のあたりにし、とっさに広島での経験から机の下に身を潜らせたといいます。その瞬間も猛烈な暴風と熱線でした。幸い著者は長崎原爆での負傷は少なかったといいます。もう一人広島で被爆した同僚は、長崎港に着いた途端のことでした。その瞬間同僚も同じく埠頭から海に飛び込んで生き延びることができたといいます。しかし、広島に続いて長崎においてもその壊滅的な被害はご承知の通りです。幸い著者やそのご家族は無事であっても、時爆心地周辺にいた者は体内に多量の放射線を浴び皆同じく、その後は原爆症と呼ばれる様々な病気に悩まされることになるのです。

戦後、設計技師としての職を失った著者は学生時代に学んだ英語力を生かし、進駐軍の通訳や英語教員に職を得ます。印象的なのは、進駐軍との付き合いの中でそれまでアメリカ憎しの著者ですが、個々の兵士たちとの交流で決して敵国であってもその国の個々の市民それ自体が悪ではないということを知ったことです。

通訳や教師を転々としながら最終的に落ち着いたのは再び三菱の嘱託職員でした。嘱託でしたが、食べるのに精一杯という生活の中では仕事が選べる状態ではなかったといいます。幸い著者は労働組合の代表にもなり70歳ほどまで三菱の職を得ることができたといいます。

それまで被爆体験を語ったことは無かったそうですが、きっかけとなったのがドキュメンタリー映画「二重被爆」でした。それ以来国連軍縮会議での演説や本書など、残されたご自分の体験を語り継ぐ活動を行っているということです。著者はことわざにある、「二度あることは三度ある」を繰り返してはならないと訴えます。広島と長崎での被爆後、世界は軍拡競争を行い今や広島型や長崎型と呼ばれる、当時の原爆の何百何千倍という威力を持った核兵器が造られています。核兵器それ自体も世界各国に分散しそのたびに著者は忸怩たる思いにかられるといいます。今年、オバマ大統領が演説において核軍縮について述べました。被爆地ではそれに大きな希望を持ったといいます。長崎原爆記念式典では、オバマ大統領に期待を寄せる平和宣言が述べられました。

抑止力として存在する世界各地の核兵器。それは核による均衡や一時的にせよ平和をもたらす機能を持つものです。誰もが核など持たない世界が良いにはきまっています。しかし、現実として理想を国家間の外交や安全保障に持ち込んだ場合、それが揺らいでしまうという悲しい現実もあります。右派とて核なき世界こそ理想なのはもちろん分かっています。しかし、核によって隣国を脅かす国家が現実に存在している。その現実を前に核なき世界という崇高な理想はどうしても揺らいでしまうのが事実です。求める理想は左派も右派もつきつめれば同じです。ですが、現東アジアにおける核による不穏な緊張が高まる今、核なき世界という理想に大きな壁が立ちはだかっているように思います。

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2009年08月14日

ナガサキノート 若手記者が聞く被爆者の物語

1945年8月9日午前11時2分から六十数年、今なお原爆は続いていると被爆者の皆さんは語っています。本書は朝日新聞若手記者が国内外の被爆者の体験を取材したものです。31名の方の体験が取材されていますが、31名の方がそれぞれの方が、思い思いに8月9日をむかえ、それからどのような人生を過ごしてきたか、31名の人たちだけでも31通りの人生がありました。

ある少女はハイヒールに憧れる女学生でした、しかし履くことはおろか結婚することすらあきらめ影のようにこっそり生きていくしかありませんでした。ある女教師は被爆間もない長崎の焼け野原で300名の中から生き残ることができた14名のために青空学級を開きました。ある被爆者は原子野で見た死屍累々が頭から離れず生涯悩まされ、ある医学生は器具すら不足するなか投下直後の爆心地で必死に救護活動を行い自らも被爆しました。ある在外被爆者は長崎の被爆後の長崎の復興を知らないで六十数年間をすごし、ある戦争捕虜は原爆投下が自由へのきっかけでした。

多くの人が、同じ原子野で助けられなかった家族や死んでいった人たちに後ろめたさを感じ、水を飲ませて死なせてしまったことで十字架を背負い、戦後には根強い差別のため口を閉ざしていました。この本で印象的なのは、多くの人の家族がせっかく生き残れたというのに原爆症や差別のために自殺していることです。特に女性に多く、長崎にいたということで結婚差別を受け、原爆症が伝染するというデマによるいじめにあってしまい多くの人が助かった命を自ら絶っているのです。さらに原爆症は被爆者の方々に様々な病気で現在まで苦しめ、長い間国の援助もないまま劣悪な環境と低賃金で生活し治療するしかありませんでした。いくら現代の人々の生活がひどいものだとしても、当時の被爆者たちの生活環境といったらこれ以上ない極限ともいえる過酷な環境だったのです。

多くの被爆者の方々は孫世代にあたる現代の若者の現状を知るにつけ、また平和から遠いこの世界の現状を知るにつけ死んだ者のために語らなければならないという思いが生まれたといいます。しかし実際には、被爆の実相を語る活動は困難が伴ったともいいます。学生の前で話せば物や野次が飛んでくる、署名活動を行っても今の若者は受けいれてすらくれない。それは被爆地長崎であろうが遠く離れた都会の街角であっても同じです。それでも時には涙をこらえながら語り部活動を行っています。それは身をもってした戦争の悲惨な体験を二度と起こしてはならないという真摯な思いからです。

現在までの原爆死傷者数は当時の長崎市の人口の3分の2にものぼります。最近まで続いていた原爆症認定訴訟は国が控訴を取り下げたとはいえまだ先は見えず、残された被爆者も大勢います。ある被爆者の方が言うように、被爆体験を生で聞ける機会は今生きている世代で最後ではないかと思います。年々被爆者の皆さんの高齢化は進みますますこういった機会は減ってきています。こうした本によって、また被爆者の方の生の声で体験を知るのは、戦争の実相を知り平和の重さを学ぶためには大変大切なことだとあらためて痛感しました。証言した方々にとっては話すのもご苦労したでしょうが、知らない世代にとってはとても貴重な体験談でした。

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協
長崎原爆被災者協議会

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ナガサキノート 若手記者が聞く被爆者の物語 (朝日文庫)朝日新聞長崎総局

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posted by hermit at 22:08 | Comment(2) | 回想録(本)

2009年08月05日

平成娘巡礼記〜四国八十八ヶ所歩きへんろ

二十四才・春 私は旅に出た
三味線を抱え漂白の旅へ
何を見つけるのか
何を見失うのか
何を抱きしめて帰るのか―

著者の月岡祐紀子さんは日本で数少ないごぜ三味線の継承者です。まだ年若く四国八十八ヶ所を歩きへんろした当時は24才です。ごぜ三味線の継承者とはいえ、まだまだ芸の道は長く遠いもので、ご自身でもこの歩きへんろで何かをつかみたいと願っての旅でした。

その昔、盲目の女性が三味線一つで放浪の旅をしていた頃にも、ごぜの人たちは実際に四国八十八ヶ所を漂白していました。さらに、百年以上前同じく24才でたった1人歩きへんろで旅した高群逸枝さんにも触発されたものでした。のちに日本の女性史学を確立することになる高群さんも「娘巡礼記」という旅の記録を発表しているのです。

「あー、疲れた。
 とうとう野宿と決定。
 着物も髪も露でシトシトになっている。
 月が寂しく、風は哀しく―。
 これから何百里、かよわい私で出来ることであろうか。
 あー、泣いて行こう。
 いえ、花を摘んで歌っていこう」(娘巡礼記より)

月岡さんの旅は、もう1人月岡さんを取材するカメラマンの女性をあわせ2人でとなりました。雨風に弱い三味線を大切に抱える月岡さん、そして12キロものカメラ機材を持って旅するカメラマンの女性。2人は途中月のもので体調を壊したり、ケンカしたり、置いていかれたり、追い抜いていかれたり、仲直りしたり、一緒に笑ったり、・・・、ただこの旅で2人は自分のなかの何かが変わった思い出深い旅となったのでした。

歩き遍路とひと口に言っても大変なものです。全工程を通して30日〜40日が目安です。途中楽なコースもあれば、遍路ころがしと呼ばれる大変な場所もあったり、修験者たちが修行した険しい道もあります。

しかし、そこは遍路の不思議です。毎日、一日中歩いていると、不思議と体の疲れも慣れてきます。それにそれまでの悩みや迷い、そんなものが次第に薄らいでいきます。ただひたすら歩く・・・・同行二人、常にわが身には常に弘法大師様がついておられる。どんなに宗教に無関心な人でも、それは自然に弘法大師様への感謝と、自分を支えてくれるたくさんの人への感謝へつながってくるといいます。

旅は様々な出会いにも満ちています。共に歩き遍路で旅する遍路仲間たち、お接待をして下さる四国の方々、今に残る先人たちの旅の足跡などです。

月岡さんは常に感謝と喜びを演奏に表します。札所であるお寺では奉納演奏し、仲間の遍路と楽しい出会いがあればその場で感謝の演奏。お接待の感謝の気持ちを表すための演奏、漂白のうちに亡くなったごぜたちの墓碑があれば追悼の演奏。彼女はこの旅を通して、1曲の遍路唄を作ろうと決意していたのです。

まだまだ自分の芸に納得できない月岡さん。かつてごぜたちが旅したその道をたどり、ひたすらごぜたちに思いをはせます。唄ができなくて悩んだこともあります。自分の演奏を指摘されて悲しくなったこともあります。しかし彼女はこの遍路旅で、自分を深く見つめることができました。

そして1曲の唄を作ることができた月岡さん。最後の札所での演奏は無心で唄うことができました。そして自分の中で新しい何かが見えてきました。女性2人とはいえ、時には危険な経験もしました。しかし、曲を作り上げ少しだけ変わることができたことで、当時のごぜたちにも少しだけ近づくことができました。

本書のなかで、月岡さんの苦悩や葛藤、時には若者らしくみずみずしく純粋な喜びや楽しさが伝わってきました。それぞれに想いを抱いて旅する遍路仲間との出会いと別れ、そして四国の自然と厳しさ、そこに住む人々の温かさ。

もう1人の自分を知る遍路旅、感謝と疲労のなかの充実。僕も1度は行ってみたい、そう思った遍路本の中でもひときわ温かい旅の記録でした。

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posted by hermit at 06:38 | Comment(0) | 回想録(本)

2009年01月27日

世界は危険で面白い@戦場カメラマン・渡部陽一

文句なしに面白かったです。タイトル通り「世界は危険で面白い」そのままです。さらにつけ加えるなら戦地の人はたくましい!とも思いました。本書は戦場カメラマンの著者が世界の戦地や紛争地帯また大災害被災地域を取材した記録です。ただ本領の戦争取材よりもそこに生きる人々や風物や風習について書かれた、戦場カメラマンならではの裏話という感じでした。

何より僕たちはこうして安全な日本で世界各地の戦争や紛争の情報に接しますが、当のジャーナリストたちは本当に命がけです。普通に観光で行くのではないのです。砲弾飛び交う戦地や紛争地帯なのです。もちろん殺されかける場面もあれば、見えない恐怖であるマラリアなどにも悩まされます。

ただ本書には硬派な戦場カメラマンの手記というよりも、笑いつつも感動できるいい話も多くありました。例えばアフリカのジャングルの奥深く、著者はそこで現地の見知らぬ傷ついた少女をなんとか助けようと試みます、かと思えばジャングルの極限地帯を命からがら共に旅した青年にカメラ機材一式盗まれるなど悲喜こもごもの体験談がそこかしこにあふれています。

郷に入っては郷に従えです。2週間平和な日本にいると落ち込んでさえくるという著者。どんな戦地でもその適応力はさすがです。そしてなんともたくましい現地の人々。空爆のさなかおすし屋さんを開店するパレスチナ商人。イスラム系過激派が銃撃戦を繰り返し銃声が聞こえない日はないというイラク、屈強の兵士でも道など1人では歩けないという中、イラクには中華料理のデリバリーサービスがあったというのです。イラク人アルバイトが砲弾のなかをスイスイと潜り抜けて中華弁当を配達してくれるというそのサービスは、味も侮るなかれ本格中華の申し分なさの美味しさだったといいます。まさにたくましき商売人魂です。イラク在住外国人に評判になり、注文が殺到するなか情勢が急激に悪化すると瞬く間に姿を消すという引き際の見事さもさすがというところ。また北朝鮮では喜び組との合コンの話を聞きつけ、潜入取材を試みるも取材というよりすっかり合コンを満喫してしまった著者もまた可笑しい。

何よりたくましいのはイラク戦争でもそうだし、インドネシア・ジャワ島沖地震の被災者たちもそうですが、そこに生きる人々のなんとたくましいことか。イラクでは手製の防空壕(2mほどの穴)を掘り、先祖から受け継いだ土地からは絶対離れないと身を潜めて耐え忍ぶイラク人たち。ジャワ島では、家屋が倒壊し全てを失ってもまだその島に住むことを望むインドネシア人たち。余震が続くジャワ島では老人たちが植民地時代に習った日本の童謡を歌っていたそうです。最後にコソボ紛争下のセルビアの恋人たちも印象的でした。家中にバリケードを張り一歩外に出ることさえ危険ななか、夜の静寂に紛れて恋人に会いに行くあるセルビア人青年。まさに命を焦がす恋愛とはこのことでしょう。戦争とはかくも悲惨で悲しい出来事ですが、ニュースでは知らされないそこに生きる人々の強くたくましく時として真摯な生き方、そして著者の勇気には感服させられます。

著者は本書のいたるところで書いています。自分が日本人であるところが大きく安全な取材に寄与していると。日本というブランドそして信用があるからこそ、日本人の著者は現地で受け入れられ信用されているというのです。世界に輸出される日本製品や日本ブランドもそうでしょう。また戦争を放棄しているという平和憲法もそうかもしれません。また世界で活躍する日本人ボランティアや人道支援が日本の信用を勝ち取っているのかもしれず、ともかく日本は欧米のそれとも違いアジアや中東のそれとも違う、日本という安全安心のイメージが著者をいたるところで助けたのだそうです。

世界は危険で面白い
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渡部 陽一

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posted by hermit at 15:27 | Comment(1) | 回想録(本)
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