2010年01月07日

【その7】日本の10大新宗教(世界救世教、神慈秀明会と真光系教団)


【5−立正佼成会と霊友会】へ

【7−世界救世教、神慈秀明会と真光系教団】

温泉地熱海の観光スポットの一つに、MOA美術館があります。最近では全国各地にさまざまな特色をもつ私立の美術館が建てられていますが、1982年に開館したMOA美術館はその先駆けです。そのMOAとは、“mokichi okada association”の略称です。岡田茂吉とは、世界救世教という新宗教の開祖です。MOA美術館の建設された場所は「瑞雲郷」と呼ばれていて、世界救世教の教団では、それを「地上天国」のモデルの一つとしてとらえています。日本にはもう一つ天国の美術館があります。滋賀県の信楽の里にあるミホ・ミュージアムです。ミホ・ミュージアムを作ったのは神慈秀明会というやはり新宗教の教団で、世界救世教からの分派なのです。ミホ・ミュージアムの名称は、神慈秀明会を創立した小山美秀子(こやまみほこ)に由来します。

神慈秀明会は、一時、街頭での布教で知られています。繁華街で信号待ちなどをしていると、信者が寄ってきて、「三分間、時間を下さい。あなたの健康と幸せを祈らせて下さい」と言ってきます。承諾すると、三分間、「手かざし」をするのです。この手かざしも、神慈秀明会が世界救世教から受け継いだもので、どちらの教団でも「浄霊」と呼ばれています。ただ、美秀子の長男で第二代会長だった小山壮吉が1984年に亡くなり、その後教団の体制が変わると、この街頭での浄霊は行われなくなりました。

過去の回で紹介した新宗教団体のように、世界救世教の場合も、開祖の岡田茂吉が、世界救世教の前身となる大日本観音会を結成する前に、大本の信者であったという経歴があります。手かざしの方法は、特別な修行も必要とされません。また教義による裏づけも必要とはされません。そのため、一度手かざしの手法を学び、その力を身につけた者は、自分で勝手にそれを活用することができます。大本、世界救世教に分裂、分派が多いのも、この手かざしのもつ特徴のためです。

岡田茂吉は、東京都浅草の露天商の家に生まれ、一時は画家を志しますが、肺結核となり十年にわたって闘病生活を送ります。その後、岡田商店という卸問屋を営みますが、第一次大戦後の反動的不況で、経営危機に見舞われます。その頃、茂吉も神田錦輝館(きんきかん)での大本の講演会に出かけ、興味を持つようになり、1920(大正9)年に大本に入信します。その後熱心に活動しますが、甥の彦一郎が修行に出かけたおり、水死したため、一時大本から離れます。しかし、茂吉から宗教に対する関心が失せてしまったわけではなく、大本の開祖である出口なおの「御筆先」を読み込み、そこに「東京はもとの薄野になるぞよ」という予言を見出します。

そんな茂吉の活動が独自性を発揮するようになったため、大本のなかで批判が起こり、1934年には、東京麹町の平河町で「岡田式神霊指圧療法」を開始し、大本を脱退して、翌年には大日本観音会という宗教結社を立ち上げました。そして戦争が終わると、熱海に日本観音教団を再建します。そこで浄霊を再開し、手かざしによる病気治しは、掌から光が出るとして、「お光さま」と呼ばれます。

世界救世教への改称は、観音信仰から脱皮をめざしてのことでした。岡田は、「観音の衣をかなぐり捨てたまい、メシアと現るる大いなる時」と述べ、観音に由来する大光如来を宇宙の創造神である大光明真神(みろくおおみかみ)へと改め、教団の近代化、現代化を進めていきました。その後美術館設立に結びつく美術品の収集、そして自然農法の普及といったことに力をいれていきます。農業共同体であるヤマギシ会は一部で世界救世教の土地を借りて農業を営み、そこで生産された食品を世界救世教系の自然食品店で販売してもらっていました。こうした自然志向も世界救世教系の個々の教団に受け継がれています。

神慈秀明会を創立した小山美秀子は、1910(明治43)年に大阪で河崎美秀子として生まれ、女学校を卒業した後、キリスト教主義にもとづく東京の自由学園で学びました。小山晃吉と結婚し、家庭に入りましたが、三人目の子供を出産する際に体調を崩し、岡田の弟子から浄霊を受け、大日本健康協会(世界救世教の前身)に入会します。その後、岡田の弟子になり、1949年には、自宅が布教所から教会に昇格し、それは秀明教会と呼ばれました。そして教会員を増やしていき、離脱する前の年、1969年には一万八千人を超えました。

自然農法への関心といったところで共通しているのが、世界真光文明教団や崇教真光といった真光系教団です。その創立者となる岡田光玉は、一時世界救世教の有力な信者、布教師でした。ただ光玉が世界救世教の影響を受けていることは間違いないにしても、教会ごと脱退しているわけではないので、分派とはいえません。

光玉は、1901(明治34)年、陸軍少将主計総監までつとめた岡田稲三郎の七人姉弟のただ一人の男の子として東京に生まれました。本名は良一で、父親は五十四歳で亡くなっており、その後、光玉は、陸軍士官学校へ入学し、日中戦争では仏領インドシナで実戦に加わり、陸軍中佐までのぼりつめたものの、胸椎カリエスと腎臓結石を患い、予備役に編入されました。このように光玉は、陸軍の元軍人であり、実力をともなった実業家でした。そして、光玉は五日間高熱にうなされ、人事不省に陥ったなかで神の啓示を受けます。「天の時至れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし」という啓示でした。そうして不幸の原因が悪霊による憑依によるものだととらえ、浄霊によってその霊障を取り除くことができると説き、浄霊を「真光の業」と呼びました。

しかし、1974年に光玉が七十三歳で亡くなると、後継者が決まっていなかったため、内紛が起こります。それは、裁判沙汰にまでなり、教団は高弟の関口榮が継承し、光玉の養女であった岡田恵珠が独立して、崇教真光を名乗ることになりました。世界真光文明教団からは、依田君美(よだきみよし)の神幽玄救世真光文明教団が独立しています。

一時真光系の教団は、新宗教としてはめずらしく若者を集めているということで注目されていました。それも、組織活動への参加を強く求めない点で、若者たちは比較的気軽に真光系教団にかかわっていくことができたからです。その点で、今日のスピリチュアル・ブームの先駆けとなったと評価することもできますが、簡単にかかわれるだけに、抜けていくのも簡単です。

【8−PL教団】

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2009年11月15日

【その6】日本の10大新宗教(立正佼成会と霊友会編)

これはまず私が読んだ上でメモ的な意味で綴っています。
感想は全編の最後に記そうと思っています。

『4−天照皇大神宮教と璽宇編』へ

【5−立正佼成会と霊友会】

立正佼成会が巨大教団へと発展したのは、この高度経済成長の時代においてだった。立正佼成会が誕生する母体ともなった霊友会の場合も同じでした。そして立正佼成会の最大のライバルである創価学会が急成長したのも、やはり1950年代なかばからはじまった高度経済成長の時代においてでした。

ここで注目されるのは、立正佼成会もそうですが、霊友会も創価学会も、皆、日蓮系、法華系の教団である点でした。ほかに、日蓮系、法華系の新宗教としては、仏所護念会や妙智会などがあります。いずれも立正佼成会と同様に霊友会からの分派です。ここで見てきた天理教から璽宇までの教団は、仏教と混交はしているものの、どれも基本的には神道系の教団でした。仏教と関わりをもつ場合にも、真言密教の系統と結びついていました。ところが高度経済成長の時代に巨大教団に発展したのは、いずれも日蓮系、法華系の教団でした。

立正佼成会の創立者は、庭野日敬と長沼妙佼の2人でした。日敬の本名は鹿蔵で、長沼の方は政といいました。日敬は1906(明治39)年に新潟県の農家に生まれ、18歳の時に東京へ出てきます。また村へ戻ったり、4年にわたって海軍に入隊したりした後、東京中野の漬物屋で働くようになり、結婚し、独立して店をかまえます。

日敬に転機が訪れるのは、長女が中耳炎をわずらい、手術を受けた時で、その経過が思わしくなかったため、修験者を紹介され、不動信仰の修行を実践します。すでに日敬はそれ以前に易を学んでいて、修行を進めるのと並行して、姓名判断も学びます。そして、霊友会の支部長である新井助信の法華経の講義を聞いて感動し、熱心に布教活動を行い、新井支部の副支部長にも抜擢されます。

その後日敬は、子供を亡くし、自身子宮内膜炎に苦しんでいた妙佼と出会います。妙佼は、1889(明治22)年に埼玉県に生まれ、上京して二度目の結婚をし渋谷区の幡ヶ谷で働いていました。彼女は、日敬に出会ったときには、天理教を信仰していましたが、霊友会に移り、日敬とコンビを組んで積極的に布教活動を展開するようになります。

霊友会は久保角太郎と、その兄嫁である小谷喜美のコンビで発足します。男女のペアが創立者である点で、霊友会と立正佼成会は似ています。しかも、2人が夫婦でない点でも共通していました。これに似た例は大本があげられます。

霊友会のもとを作ったのは、西田無学という人物でした。本名を利蔵といい、三重県で生まれました。彼は横須賀に出て、法華信仰をもつようになり、仏所護念会という組織を作って、布教活動を展開するようになります。この仏所護念会は、後に関口嘉一・トミノ夫妻が霊友会から分かれて作った仏所護念会とは別の組織です。

無学の法華信仰の特徴は、法華経による先祖供養を強調したところにありました。その信仰が具体的にあらわれたのが、「総戒名」と呼ばれる戒名です。無学は、布施の額に応じて戒名に院号や院殿号がつけられている現状を批判し、すべての戒名に院号をつけることを主張しました。しかも、総戒名には、夫の祖先と妻の祖先の両方を含むものとし、その基本的な形式を定めました。

無学は1918(大正7)年に横浜で亡くなり、その教えは弟子の増子酉吉に受け継がれます。久保角太郎は、1892(明治25)年に日蓮と同じく千葉の阿房小湊に松鷹家の三男として生まれ、久保家に養子に出されますが、その前に一時酉吉のところに預けられていました。それが彼の宗教家としての道に進ませることにつながりました。角太郎は、喜美に宗教家としての能力があることを見出し、彼女にひたすら戒名を集めてこさせたり、断食させたりといった修行を実践させました。そのなかで、喜美は死者の霊のことばを聞くシャーマン的な能力を体得していきます。これまで見てきた女性教祖の場合には、精神の病をかかえることをきっかけに神懸りし、そこから教祖としての道を歩みはじめた自然発生的なものでしたが、喜美の場合には、意図的に教祖に仕立てあげられたともいえます。

大日本霊友会は1930(昭和5)年には赤坂伝馬町に本部をおき、その4年後には千名の会員をかかえるまでになります。37年には関西にも進出し、本部を麻布板倉に移し、百畳敷の講堂を建てるまで成長します。すでに日本は戦争の時代に突入していました。大日本霊友会は、体制に順応し戦争を積極的に支持したことから弾圧を受けることもありませんでした。また喜美の性格がきつく、また大日本霊友会の一つのベースになっているはずの法華経に対する理解がなかったために会を離れる人間も出てきました。1935年には理事だった岡野正道がぬけて考道会(現考道教団)を作り、36年には高橋覚太郎の霊照会(現日蓮誠宗三界寺)が、38年には井戸清行の思親会が独立します。

1940年に宗教団体が施行されたのにともない、宗教結社大日本立正佼成会となり、41年には妙佼のお告げで、本部を和田に移します。43年には妙佼の霊感指導が人心を惑わすとして、日敬と妙佼が警察に留置されるという事件も起こります。この時代の会員数はまだ千人前後にとどまっていました。1948年には、会の名称を立正佼成会に改め、宗教法人としての認証を受けます。そして高度経済成長の時代がはじまると、立正佼成会は急速に信者数を増やしていき、敗戦の1945年に1500人程度だった信者数は、50年に6万人に達し、55年には30万人にまで増えています。その際に、立正佼成会の布教の武器になったのが、先祖供養、妙佼の霊感と日敬の学んだ姓名判断の組み合わせ、そして法座でした。

法座とは立正佼成会が霊友会から受け継いだ方法であり、それは立正佼成会の活動の核になっています。法座には、十人から二十人くらいの会員が集まり、車座になって話し合いを行います。「法座は佼成会のいのち」とも言われているくらいです。

そして高度経済成長の時代には土地不法買占め事件を読売新聞にキャンペーン報道された「読売事件」も起こりました、他教団の場合でしたら購読ボイコットなどが起きてもおかしくない状況でも、立正佼成会は読売新聞は自分たちの行きすぎた行為を戒めてくれた「菩薩」と呼び摩擦には発展しませんでした。その後ライバル的な存在であった創価学会が政界へ進出するなどしているなか、立正佼成会は創価学会に対抗し、反創価学会系の新宗教教団が終結した新日本教団連合会(新宗連)の中心教団として活動を展開しました。

これに対して霊友会の方は、立正佼成会などが分かれていった後、1944年には久保角太郎が癌で亡くなります。霊友会の場合、喜美が神懸りする霊能者で、角太郎が組織をまとめる組織者でした。2人は役割分担をしながら教団の運営を進めてきたわけで、角太郎の死は大きな痛手でした。

そして1949年から53年にかけて次々と分派が生まれていくことになります。喜美の性格が災いしたともいわれますが、50年に金塊隠匿と脱税が、53年には赤い羽根募金の横領が発覚したことが大きかったといわれます。鹿島俊郎の普明会教団、宮本ミツの妙智会教団、関口嘉一の仏所護念会教団、石倉保助の大慧会教団、斎藤千代の法師会教団(現法師宗)、佐原忠次郎の妙道会教団、山口義一の正義会教団などが次々と分派しました。戦前の分派の場合は人数が少なかったものの、戦後の分派の場合はには、支部をまとめてあげている大幹部が多くの信者をともなって分派していったため、霊友会は大きなダメージを受けることになりました。

相次ぐ分派によって勢力をそがれた霊友会は、1971年に会長の喜美が亡くなると、久保の息子である久保継成が二代目会長に就任します。継成は東京大学の印度哲学科の博士課程を終了したインテリでした。継成は「インナートリップ路線」を掲げ、若年層をターゲットに宗教活動を展開していきます。ちょうど高度経済成長の時代から消費の時代に移り、個人としていかに生きるべきかを説く宗教への関心も高まっていきます。73年のオイルショック以降には、終末論や超能力の取得を売り物にするより新しい新宗教「新新宗教」が登場するようになりますが、霊友会のインナートリップ路線はそれを先取りするものでした。しかし時代は核家族化が進み霊友会系の先祖供養という武器は、十分に機能しなくなっています。インナートリップ路線はそのひとつの答えでしたが、現代の人間関係の希薄化の中で法座もなりたちにくくなり、その点で霊友会系教団は大きな転換点にさしかかっています。

この続きは不定期に更新します。
なお『6−創価学会編』は本書の著者が書いた以下が詳しいのでここでは省くことにします。

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『7−世界救世教、神慈秀明会と真光系教団』へ

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【その5】日本の10大新宗教(天照皇大神宮教と璽宇編)

これはまず私が読んだ上でメモ的な意味で綴っています。
感想は全編の最後に記そうと思っています。

『4−生長の家編』へ

【4−天照皇大神宮教と璽宇(じう)】

1948(昭和23)年9月8日、数寄屋橋公園に「踊る宗教」なるものが出現しました。その模様を朝日新聞は次のように報じています。「ナニワ節みたいであり、筑前ビワのごときところもある奇妙なフシ回しで老若男女とりまぜて二十名ばかり、無念無想の面持ちよろしく踊りまくる図に銀座マンも笑っていいのか、カナシンでいいのかポカンと口を開けての人だかり・・・・」だったといいます。

この踊る宗教こと天照皇大神宮教の教祖である北村サヨは、当時48歳で、教団の中では「大神さま」と呼ばれていました。彼女の説法は、「朝日新聞」にあるように、ナニワ節を思わせる歌による説法で、それが延々四時間も続き、その間、大神さまは、水も飲まず、ぶっ通しで歌説法を続けます。

サヨはウジやウジのコジキといった表現をよく使いました。それは利己心に固まり、神のことを理解できない人間のことをさしています。この世界に起こる現象は、すべてそこに神が関わっていることから「神芝居」と呼ばれ、自らのことは「女役座」と称し、「同士」とも呼ばれる信者たちの先頭に立って、世直しのときが迫っていることを訴えました。

また数寄屋橋公園に出現する前の1946年、サヨは、食糧緊急措置違反に問われ、懲役八ヶ月、執行猶予三年の有罪判決を受けたことがありました。ウジムシに食わせる米はないと、信者たちに米の供出を拒否するよう呼びかけたからです。サヨは、法廷で、歌説法を行い、無我の舞を披露します。

彼女の肚には神が宿っていて、歌説法を含め、すべてはその神の言うことだとされていたからです。その神こそが、教団の名前にもなった天照皇大神宮で、それは天皇家の祖神とされる天照大神に由来します。なお、伊勢神宮の内宮は、皇大神宮と呼ばれています。終戦後天皇陛下が「人間宣言」を行ったため、自らがその空白を埋めようとしたといいます。

サヨは1920(大正9)年に田布施の北村清之進と結婚しています。清之進は、一時、ハワイに移民していたことがあります。それが後に天照皇大神宮教がハワイに進出するのも、そうした地理的な環境が影響していました。

1942年7月、家の離れ、あるいは納屋で不審火がありました。サヨは、その原因を突き止めようとして祈祷師のもとを訪れ、それから深夜に神社へ参拝する丑の刻参りなどを実践しました。1944年には、祈祷師から生き神になると告げられます。その年の5月4日には、彼女の肚のなかに入り込んだものと話をするようになりますが、それは命令を下すようになり、サヨがその命令を拒むと、体が痛み、命令に従うと、痛みが消えます。やがて、肚のなかのものは、サヨの口を使って直接語りだすようになります。そして天照皇大神宮という神であり、宇宙を支配する神であることを明らかにします。そして戦後サヨが公衆の面前で実践したように、ウジの世の中に対する厳しい批判をするようになったのでした。

肚の中に神が宿っているということは、サヨ自身が神であることを意味し、彼女は生き神として人々の信仰を集めるようになります。サヨに伺いをたてると、よく当たると言われ、生き神としてのサヨに祈れば、病気が治るとも言われるようになります。天照皇大神宮教は、もっぱらこの生き神としてのサヨの魅力によって信者を集めていきます。しかし、体系的な教義が作られ、洗練された儀礼が形成されていったわけではありません。

新宗教に厳しい大宅荘一も、天照皇大神宮教が信仰による金儲けをめざしていないことをさして、「ノン・プロ主義」と呼び、その点を評価しています。実際サヨは、神殿を建てる際、建設作業に従事するなどしていました。

天照皇大神宮教が踊る宗教として注目を集める前に、もう一つ、騒動を起こし注目をされた教団がありました。それが璽光尊(じこうそん)こと長岡良子を中心とした璽宇という教団でした。北村サヨは「第二の璽光尊」とも呼ばれました。その璽宇に不世出の横綱双葉山も傾倒していました。璽宇は幡を立てて「天璽照妙」と唱えながら、町中を練り歩き、神楽舞を披露したことから、人々の関心を呼び、メディアでも取り上げられました。警察は璽宇の動静に注目していて1947年1月18日、取締りの方針を決定します。そして、二十一日深夜、警察は検挙のために捜査に入ります。その際に、双葉山は大立ち回りを演じ、幹部とともに検挙されています。双葉山は翌朝、朝日新聞の記者にもらい下げられ、説得されて璽宇を離れることになります。璽宇の幹部たちは30日に釈放され、璽光尊については、金沢大学の精神科医が鑑定を行い、妄想性痴呆と診断されました。同じ医師は2007年に101歳で亡くなる直前、オウムの麻原と面会し、訴訟能力を欠いていると診断しています。

天照皇大神宮教と璽宇が似ているのは、単に社会的な騒動を起こした点だけでなく、璽光尊は国粋主義の傾向が強く、皇室を崇拝していましたが、戦時中、日本が敗色濃厚となるとき神としての自覚を持つようになり、自分が現人神として天皇を補佐することで八紘一宇が実現すると考えるようになりました。天皇陛下が人間宣言をすると、今度は皇室に変わって自らが世直しを代行するものと考えるようになり、璽宇のある場所を「皇居」引越しを「遷宮」家具や日常使う物までに菊の紋章をつけるようになりました。また璽宇ではアピールのために「行軍」あるいは「出陣」を行い、天璽照妙の幡を立て、天璽照妙と唱えながら、宮城前、靖国神社、明治神宮をめぐるようになりました。

璽宇は取り締まりこそ受けたものの、教祖も幹部も起訴されず、裁判にはかけられませんでした。しかし、メディアによって璽光尊は精神病者で、璽宇は邪教であるというイメージが広まりました。世間から白眼視され、各地を転々としていきます。流浪の旅は最終的に横浜に落ち着きました。

璽宇の前身となったのは、鉱山関係の実業家で、神道系の行者であった峰村恭平を中心とした皇道大教でした。この皇道大教が、1941年に璽宇に改称します。その時点で、二つのグループがそこに加わりました。一つは大本系のグループで、もう一つが璽光尊となる長岡良子を中心としたグループで、良子は真言密教系の霊能者として病気治しなどを行っていました。そして峰村は、病もあって、璽宇から退き、良子がその中心になっていったのです。

一方、天照皇大神宮教の方は、その後も活発に活動しています。1951年にサンフランシスコ講和条約が発効になると、日本の新宗教教団は海外布教に乗り出すのですが、天照皇大神宮教も、本部のある田布施と縁のあるハワイに進出します。進出したのは52年のことですが、到着するやいなや埠頭で歌説法を行い、無我の舞を披露しました。サヨは1967年に亡くなっていますが、その後は、孫の清和が継いでいます。彼女がサヨの後継者となったのは高校2年生の17歳のときのことで、教団内では「姫神さま」と呼ばれていました。しっかりとした後継者が定まったことで、天照皇大神宮教は教祖の死後にありがちな分裂を経験しないですみました。現在ではそれほど目立った活動を展開しているわけではありませんが、中規模の教団として存続しています。

『5―立正佼成会と霊友会』へ

この続きは不定期に更新します。

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【その4】日本の10大新宗教(生長の家編)

これはまず私が読んだ上でメモ的な意味で綴っています。
感想は全編の最後に記そうと思っています。

『2−大本編』へ

【3−生長の家編】

生長の家の信者数ですが1980年に300万人としていたものの、数字を改める試みを行い、300万人に改めたそうです。それは公称の信者数と現実の間に大きな開きが生じたためです。生長の家は、戦前において、あるいは戦後の一時期、時代の空気をつかみ、その勢力を拡大しました。しかし、時代が変化することで、信者数を減らすことになってしまったそうです。

生長の家の創立者谷口雅春は、1893(明治26)年11月22日、現在の神戸市の谷口音吉・つまの次男として生まれました。本名は正治でした。子供時代にはきぬの夫である又一郎の石津姓を名乗っていました。やがて大阪市岡中に入学し早稲田大学に進みました。その時代の早稲田大学は直木三十五や西条八十などの文学のメッカで、プラグマティズム哲学やウィリアム・ジェームズの思想やオスカー・ワイルドの耽美主義、さらにはトルストイの人道主義に惹かれ、こうした文化や思想に関心を持っていました。

その後女性関係で身を持ち崩し、やむなく大学を中退することになり工場で低賃金の労働者として働くことになります。やがて資本主義の世界に対する疑問から、工場長と激論したことをきっかけに工場を辞めます。そして、心霊治療や催眠術に関心をもち、それは大本への入信につながります。

谷口はそれまでも雑誌に記事を翻訳し投稿して原稿料を得ていたこともあり、大本でも文才が認められ、機関紙の編集や聖典である「大本神論」の編纂作業に当たり、大本の霊学の体系化にも力を注ぎます。やがて第1次大本事件で逮捕を免れた谷口は、聖師、出口王仁三郎が勾留の執行停止で出獄中、「霊界物語」の口述などの筆記をはじめます。また開祖出口なおが神懸りで記した「御筆先」と王仁三郎が漢字混じりに書き直したものとを比較対照し、不敬罪に該当する箇所がないか調査する作業を依頼され、谷口は御筆先をすべて読むことになります。

しかし、第1次大本事件の半年後京都鹿ヶ谷にあった一燈園の活動に惹かれ、その生活や思想に影響を受けた谷口は、王仁三郎の意に沿わなかったようで、谷口は、大本で結ばれた夫人の輝子とともに脱退の意を固めます。すでに大本の教団のなかで最後の審判が起こると予言されていた1922(大正11)年5月5日には、何事もなく過ぎてしまっていました。

谷口は、出勤前に近くにあった本住吉神社に参拝するのを日課にしていました。ある日彼は、「色即是空」という言葉を思い浮かべながら静座して合掌瞑目していました。すると、どこからともなく大波のような低く、威圧するような声がして、「物質はない!」と聞こえます。続けて「色即是空」を思い浮かべると、また、「無より一切を生ず」という声が返ってきました。この問答を通して、彼自身がコントロールに苦労してきたこころというものが実在せず、その代わりに実相があり、その実相こそが神であると悟ります。そうすると、「お前は実相そのものだ」という天使たちが自分を讃える声が聞こえてきました。

谷口は、自らの悟りを広く伝えるために雑誌の刊行を考えます。そして、会社に勤務するかたわら旺盛な執筆活動を開始し、雑誌に文章を投稿します。正治から雅春へと改名したのも頃でした。谷口自身は新しい雑誌を創刊し運動を進めたいと思っていましたが、資金も時間的余裕もありません。そうすると例の声は彼に「今起て!」と呼びかけてきました。決して彼は無力ではなく、力を与えているというのです。彼が「実相はそうでも、現象の自分は・・・」と、戸惑いを見せると、頭の中では「現象は無い!無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ!実相のみがあるのだ。お前は実相だ。釈迦だ、基督だ、無限だ、無尽蔵だ!」という声が鳴り響きました。

谷口は、こうして雑誌「生長の家」創刊号を刊行します。1929(昭和4)年の大晦日に1千部の雑誌が刷り上り、正月早々、「求道者の会」に賛同した仲間を中心に、「生長の家」を無料で進呈していく。生長の家の目的は、「心の法則を研究しその法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動を行ふ」こととされました。こうして新しい宗教運動が誕生しました。

谷口はその教養を生かして、仏教やキリスト教の思想を自らの教えに取り込み、世界の本来のあり方としてとらえた実相の世界を説いていきました。人間の「念のレンズ」は歪みその結果、神の世界と人間の世界とに不一致が生じた。谷口は、「汝ら天地一切の物と和解せよ」と言い、迷いという念のレンズの曇りがなくなれば、地上にも神の世界が現れると説きました。雑誌「生長の家」が神誌として受け入れられたのは、雑誌を読んだだけで病気が治ったという人間があらわれ、それに感謝する手紙が多数谷口のもとへ寄せられたからでした。こうして、生長の家は現世利益の側面を強調するようになっていきますが、それはあくまで実相という本質に気づいたことの証として哲学的に解釈され、他の宗教とはちがって特殊な祈祷などを行うことがなかったために、生長の家は哲学的でインテリ向きの宗教だというイメージを保持していました。そして「生命の実相」全集普及版全十巻を観光し、大々的に広告をうち、第1巻だけでも5万3千部も売れました。教祖の著作を大々的に宣伝し、売り上げをあげる手法の先駆けは生長の家でした。

しかし、ジャーナリスト大宅荘一は、生長の家の根本思想は、素朴で原始的な唯心論にあり、「病は気から」という俗説を「盲滅法」に普遍化し、それを神秘化して宗教に立ち上げ、徹底した商品化をめざしていると分析しています。

1940年に宗教団体法が施行され、生長の家が宗教結社として認められると、天皇信仰を強く打ち出します。「すべて宗教は、天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼仏も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる途なり」と主張しました。太平洋戦争が勃発すると、谷口はそれが「聖戦」であると主張し、中国軍を撃滅するために「念波」を送ることを呼びかけた。しかし、聖戦と主張したものの敗戦したしたことで、雑誌の復刊が可能になり、「日本は負けたのではない」「ニセ物の日本の戦いは終わった」と敗戦を合理化しました。生長の家の教えには、「本来戦い無し」のことばがあるとし、成長の家が平和主義を説いていたと主張しました。

やがて60年安保などをめぐって、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張を展開したことで保守勢力に支持され、社会的な影響力を発揮するようになりました。生長の家は海外にも進出し、ブラジルにおいてでは最も成功をおさめました。一方、日本の生長の家は、さらなる時代の変化によって衰退を余儀なくされていきます。谷口は1985年に亡くなり、彼が崇拝の対象とした昭和天皇も亡くなっています。また政治運動が衰退するにともなって、成長の家の存在意義も薄れていかざるを得ませんでした。

『4―天照皇大神宮教と璽宇』へ

この続きは不定期に更新します。

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2009年11月14日

【その3】日本の10大新宗教(大本編)

これはまず私が読んだ上でメモ的な意味で綴っています。
感想は全編の最後に記そうと思っています。

『1−天理教編』へ

【2−大本(おおもと)編】

「邪宗門」で有名となった大本は、日本の新宗教のなかで、これほど高い評価を受けている教団はないと著者は書いています。大本は戦前「皇道大本」戦後には「愛善苑」を名乗っていましたが、現在の正式名称は大本(おおもと)です。

大本は大正と昭和の二度にわたって、権力による過酷な弾圧を受けたこともあり、権力に徹底して戦った新宗教として、特に反権力の傾向をもつ人々からは好感をもって迎えられてきていました。大本が、そうした高い評価を受けるにあたっては、前述した高橋和己の朝日ジャーナルに連載された小説「邪宗門」が大きな反響を巻き起こしたことで知られることとなりました。この単行本は政治運動、学生運動が勢いを増していた1966年に刊行されており、左翼の学生たちによく読まれました。そこから、大本=反権力、反天皇制の宗教というイメージが定着しました。しかし、小説のなかに登場するひのもと救霊会のイメージと、現実に存在した大本の実態との間には相当に開きがありました。

大本を描いた小説には、大本を語るうえではかかせない人物、出口王仁三郎が生きていた時代を徹底的に取材した出口王仁三郎の孫である出口和明著「大地の母」がありますが、全十二巻にわたる長大なもので、単なるフィクションとは思えない小説でした。大本には出口王仁三郎という常識をはるかにこえる人物が重要な役割を果たしました。王仁三郎は、有栖川宮熾仁親王の御落胤だという噂が広まっていて、王仁三郎自身も、歌のなかでそれを暗示していました。ところが弾圧によって裁判にかけられた際には、周囲がそう噂するだけだと御落胤説を否定しています。

王仁三郎という人物は、天衣無縫で、破格の人物であり、常識では計り知れないところがあったようだと著者は書いています。1935(昭和十)年の弾圧の時には、治安維持法と不敬罪に違反したとして裁判にかけられますが、法廷では珍問答を繰り返し、猥談を交えて、裁判官を煙に巻いたり、裁判にあきると、足や腹、頭が痛いと大騒ぎし、休廷に持ち込んだりしたそうです。極めつけは、この裁判の一審で無期懲役の判決を下されたときで、後ろをむくと、舌を出してあかんべーをしたといいます。こうした王仁三郎の天衣無縫とも言える魅力によって、大本には様々な人間が集まってきました。

大本はたんに宗教団体にとどまらず、精神革命、社会革命の運動としての性格があり、昭憲皇太后の姪である鶴殿ちか子が大本に入信するということもありました。彼女は鶴殿男爵の夫人で、岩下子爵や宮中顧問だった山田春三も入信しています。大本の場合、そこから後に宗教界のリーダー的な存在が輩出されている点にも特徴があります。浅野和三郎の場合、第1次大本事件の後に教団を離れ、心霊科学研究所を結成し、日本におけるオカルティズムの先駆者となりました。生長の家の創立者、谷口雅春も大本にいたことがありました。世界救世教の創立者、岡田茂吉も大本に入信していました。また神道天行居の創立者、友清歓真も大本に入信していたことがありました。大本から分かれた人間たちは、神懸りする教祖的な人格というよりも、心霊現象や神道に関心をもつインテリ宗教家であったところに特徴があるそうです。

大本の教祖であるなおは、天理教の中山みきが神懸りをするようになった天保年間、1836(天保7)年に、京都の福知山で桐村という大工の家に生まれました。しかし、生活は貧しく、なおが五十三歳の時には夫が亡くなり、生活は困窮します。そうした中で、なおは、みきと同じように神懸りするのです。最初に神懸りをしたのは、他家に嫁でいた三女で、初産がきっかけでした。続いて他家に嫁いでいた長女も神懸りし、長女の方は特に激しかったそうです。そして、なおは五十七歳の時に神懸りします。腹の中に強い力を発するものがいて、それが突如大きな声となって表に出てきたのです。なおの住む地域は陰陽道系の祟り神である金神で、教祖によって金神が本当は幸福をもたらす神であると解釈しなおし、信仰の対象としていた金光教が勢力を伸ばしていました。なおは、この金光教に影響され、自らに宿った神を「艮(うしとら)の金神」としてとらえました。注目されるのは、この艮の金神が、実は国常立命であるとされている点です。国常立命(尊)は、天理教の主宰神、天理(輪)王命を構成する神々の筆頭に位置づけられていました。つまり、名称は異なるものの、オーソドックスな神道でも、天理教や大本のような新宗教でも、神道系であれば、国常立命という同一の神を根源的な神として信仰の対象としていることです。

最初、なおは、金光教の枠のなかで宗教活動を展開していました。病気治しを行って、信者を増やすとともに、やがて、神懸りの状態で筆をとり、神の言葉を書き記すようになります。それが御筆先で、なおはその時点で字が書けなかったとされています。なおは、亡くなるまでの四半世紀にわたって御筆先を書き続けました。それをまとめたのが「大本神論」です。御筆先の内容は「さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ」といったように金神が世に現れたことを説き、世の立て替え、立て直しを進めることを求めることでありました。しかし金光教には終末論的な世直しの傾向をもっていなかったため、なおは、1897(明治三十)年には金光教から独立します。

王仁三郎が表に立って活躍するにつれて、なおの方は、表舞台から退き、最後の段階では、御筆先さえ書かなくなります。そして、事件の起こる前の1918(大正7)年に83歳で亡くなっています。先に触れた出口和明の「大地の母」では、なおに降った天照大神と、王仁三郎に降ったスサノオノミコト、あるいはなおの側からは悪神とされた小松林命の間で激しい対立、抗争が繰り広げられたことになっています。そうした話は、大本についてあつかった他の書物には書かれていません。この事件の大打撃によって先に触れた浅野や谷口などは大本を去ることになりました。

王仁三郎は大陸進出を果たしていきます。それはやがて、第二次大本事件にも結びついていくのですが、大本を日本のみならずアジア全体に広めるのに貢献しました。大本には世の立て替えという考え方があり、社会変革の志向性がありました。そのため、1934(昭和9)年には、昭和維新を掲げて「昭和神聖会」が組織されます。昭和維新会は、反体制的な政治運動ではなかったものの、会の賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていたため、国家権力にとっては脅威であり、1935年12月警察の大々的な取締りを受け、王仁三郎以下教団の幹部たちは不敬罪や治安維持法違反で逮捕されました。大本の施設は徹底的に破壊され、メディアは反大本キャンペーンをはることになります。これが第二次大本事件です。1940年、一審では王仁三郎に無期懲役の判決が下され、信者たちは有罪判決を受けます。王仁三郎は、6ヶ月にわたって獄につながれ、日本の敗戦によって控訴中に大赦となります。

戦後、大本教団は再建されますが、1948年に王仁三郎は亡くなっています。王仁三郎なきあとの教団は、すみや直日のもと、農業運動や平和運動に力を注ぐものの、王仁三郎生前の時代のように、運動として大きく発展することはありませんでした。しかも、内紛から分裂しその点でも力を失っているそうです。

『3−生長の家』へ

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【その2】日本の10大新宗教(天理教編)

これはまず私が読んだ上でメモ的な意味で綴っています。
感想は全編の最後に記そうと思っています。

『はじめに』はこちら

『1−天理教』

奈良県天理市は一大宗教都市だといいます。天理教の独特な建物が市内のいたるところに立ち並んでいるといいます。中心には巨大な教会本部の建物が建っており、「ぢば」と呼ばれ、その中の中心は「かんろだい」が据えられています。天理教の教えでは、このぢばは、人類が発祥した場所であるとされています。したがって、天理市を訪れ教会本部に礼拝に行くことは、「おぢばがえり」と呼ばれ、駅には「お帰りなさい」という看板が立っています。

天理教が誕生したのは、幕末維新のことです。天理教の教団では、1838(天保9)年10月26日を立教の日と定めています。この頃には天理教の他にも如来教、黒住教、禊教、金光教などが誕生しています。新宗教の発祥時期は幕末維新の頃や、教団が急速に拡大していく戦後だとするのか議論がありますが、最も有力な19世紀の終わりから20世紀の初めの頃に発祥を求めるとすれば、大方の宗教は新宗教でなくなります。その場合には既成宗教と新宗教の中間的な形態として「民衆宗教」といった呼び方が使われます。その一因は、宗教の発生時期と、拡大していく時期にずれがあるためです。創価学会の場合は80年の開きがあるとされています。

その天理教ですが、誕生した時代には、天理教関係の施設もなく、そこには丹波市という村であり、教会本部も教祖が嫁いだ中山家の屋敷にすぎず、周囲も農村で信者が急速に増えることもなかったといいます。天理教が立教の日を定めているのは、その日、教祖である中山みきが「神の社」に定まるという決定的な出来事が起こったからです。神の社が何を意味するかは教団の中でも議論がありますが、単純化すると、みきが神そのものになったと考えていいとされています。天理教の主宰神である天理王命は、人類全体を生み出した存在であることから「親神」であるとされていて、みきもこの親神と同一視されています。つまり立教の日は神(みき)がこの世に出現した日と考えられているそうです。

立教の日に先立つ10月23日、みきの長男秀司が足の病にかかり、修験者が中山家に呼ばれて、祈祷が行われました。その際に、神が降る巫女の代理をみきがつとめたところ、「元の神、実の神」と名乗る神が降り、みきを神の社としてもらい受けたいと言い出しました。この申し出を受け入れるなら、世界中の人間を救うが、拒むなら、中山家を破滅させるというのです。そこからみきに降った神と中山家の人々との間で問答が繰り広げられ、家族が申し出を拒むと、みき自身が苦しみました。そこで、みきの夫、善兵衛は、26日に、みきを神の社として差し上げると返答し、それでみきの苦しみも治まったのです。

実際、神の社と定まったはずのみきは、すぐには宗教家として救済活動をはじめることはなく、周辺地域で妊婦をお産の苦しみから救う「お産の神様」として知られるようになるのは、そのおよそ20年後のことで、教団組織が誕生するまでには、さらに20年の歳月がかかっています。みきは、妊婦を救う際に、「をびやゆるし」と呼ばれる行為を行いました。妊婦のお腹に三度息を吹きかけ、三度お腹をなでるというもので、まじないと変わりませんでした。それでも、それで救われた人間たちがみきの信者となり、その名が地域に広まっていきました。

明治に入ってしばらくの間、天理教は周囲からの迫害もなく、比較的穏やかに活動を展開していました。しかし時代が変わるごと次第に警察の取り締まりを受けるようになっていきます。確かに、天理教には、ぢばが人類発祥の地であることを根拠づける独特の神話が存在し、それは、「古事記」や「日本書紀」の記述とまったく異なっていました。一部の共産系研究者は天理教が近代天皇制に反対したからだとしていますが、実際に、取り締まりを受けたのは、天皇制に反対したからではありませんでした。取り締まりは、1873(明治6)年に教部省から出された禁厭祈祷を禁止する法令に基づいていました。翌74年には、教部省から、「禁厭祈祷ヲ以って医薬ヲ妨グル者取締ノ件」という布達が出され、呪術的な信仰治療に頼って医者や薬を否定することが禁止されていたため、医者や薬を拒絶し、祈祷や呪いによる信仰治療が実践されていた天理教は取り締まりの対象となりました。

さらに1880年には、今の軽犯罪にあたる大阪府の「違警罪」の一項にも違反し取締りの対象となり教団にとってはさらなる痛手でした。しかも教祖は高齢で逮捕・拘禁はその健康を害する危険性を持っていました。そこで刑法が改正された同年には、既成仏教宗派である真言宗の傘下に入り転輪王構社を長男秀司を中心に結成し迫害を避けようとしました。ところが結成の翌年その試みの中心を担っていた秀司が亡くなるという出来事がおこります。

その翌年頃から丹波市の周辺に奇怪な老婆が出現するようになります。彼女は自ら転輪王と名乗り「万代の世界を一れつ見はらせば、棟の分かれた物はないぞや」といった言葉や、自分を信仰する者には百五十年の長命を授けるといった言葉を言っていました。近隣の住民からは「お出まし」と呼ばれていました。通常の感覚からすれば、みきの振る舞いは尋常なものではなかったでしょうが、信者たちは、みきが激しい神懸り(かみがかり)を繰り返す姿を見て、その前提の上にみきのふるまいを解釈し、そこから意味を引き出し、救済の可能性を見出していったのです。その当時で信者数は200名以上を抱えていました。

みきは、警察による拘留を繰り返し経験していましたが、中には12日間の拘留もあり最低気温が4.2℃を記録することもあり、1887年2月18日にみきは90歳で亡くなっています。みきの死は、普通なら長寿をまっとうしたことになりますが、みきは生前、人間の寿命は百十五歳までと公言していて、信者たちはそれを信じきっていました。予想が外れたためです。

彼女の決まっていた後継者は、大工の棟梁だった飯降伊蔵という人物でした。彼はみきの生前から神懸りをし、その死後は、天理王命のことばを伝える役割を果たすようになっていました。その伊蔵に、みきの葬儀が行われた翌日の2月24日に神が降り、みきが百十五歳の寿命を二十五年縮めて信者たちの救済にあたるのだという意味の言葉を下しました。これで教団の決定的な危機を回避することに成功したのです。これはキリストの死の場面でも同じことがいえます。

そのみきがいなくなったことで、眞之亮を中心とした教団の幹部たちは、動きやすくなりました。みきの生前の1885年に、神道本局部属六等教会の設置を認可されたのを皮切りに、教派神道としての独立をめざす運動を繰り広げていきました。教団では「教則三条(三条の教憲)」の中にある、「天理人道を明らかにすべき事」という言葉に基づいて、その名称を天理教に改め、1891年には、神道本局直轄一等教会に昇格し、1908年にはようやく悲願だった独立を果たし、教派神道として公認されることになります。

公認を得る前から、天理教は、社会的に認知されることを求めて、政府に協力していきました。戦争が起これば、航空機などを寄付し、志願兵の応募に積極的に応じ、満州国が誕生すれば満蒙開拓団にも参加し、国家神道の体制に迎合するものに改めて布教も展開しました。これは「明治経典」と呼ばれ、現在の経典とは区別されており、天皇とその先祖を神として祀ることを強調する内容になっていました。

その太平洋戦争に突入する頃には信者数が30万人に増え、大正の終わりから昭和のはじめにかけて急増しています。天理教が拡大を見せていた時代、天理教は「搾取の宗教」とも言われていたそうです。信者の大半は庶民ですが、信仰の証として布教活動にすべてを費やし、稼いだ金はみな教団に献金してしまったからです。

その背景には、「貧に落ちきれ」という天理教の教えがありました。「稿本天理教教祖伝」には、神の社となったみきが、際限の無い施しを続け、それによって中山家は没落したと記されているためです。しかし、みきが際限のない施しをしたという証拠は存在しないそうです。

戦後の天理教はみきのひ孫にあたる二代目真柱、中山正善でした。彼は東大出のインテリで皇族ともつきあいがありました。そのこともあって、戦後の天理教は、創価学会などとは異なり、膨大な庶民を信者として取り込むことには必ずしも成功しませんでした。現在天理教は公称で百九十万人程度なんだそうですが、実際の信者数は五十万人程度だと著者は書きます。

天理教には分派が多くみきの跡を継いだ飯降伊蔵の後、神の言葉を取り次ぐ存在が、天理教のなかに途絶え、誰もが天理王命の啓示を受けたと主張できるようになったためです。最も名高いのは大西治郎が大正時代のはじめに創立した「ほんみち(当時は天理研究会)」です。また戦前において最も大きな新宗教であり、熱狂的な布教活動を展開したことで、社会からの反発も大きく、さまざまな形で天理教批判が繰り広げられました。戦後は創価学会などが活発化し注目はあまり集まらなかったといいます。それだけ定着したともいえるし活力を失ったともいえます。著者は天理教に限らず新宗教の課題は、その活力をいかに継続させていくかにあるといいます。

『2−大本へ続く』

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2009年11月13日

【その1】日本の10大新宗教・はじめに

全く新書だというのに何という膨大な情報量だろうとまず思いました。これほどまでの内容ならば大型本が1冊や2冊できそうなものです。そこで今回から本書をいくつかの記事に分けて紹介したいと思います。

まず昨今使用されていた言葉「新興宗教」という言葉は、どこか差別的な印象がつきまとうということで、現在研究者を中心に「新宗教」と呼ぶようになったそうです。新興宗教とはその名の通り、戦後急速に拡大していった既存の宗教から分派した宗派のことで、戦後成長期と事を共にするようにエネルギッシュに台頭してきたことからその名で呼ばれたそうです。ちなみに戦前においては、「類似宗教」「諸教」と言い方で呼ばれたこともあります。そういう意味で著者が本書を書く内容と目的として、10教団を選んだ理由を、すぐれた宗教というわけではないし、評価を意図したものでもなく、正しい新宗教というわけでもなく、過去における社会的な影響力や教団の規模から選んだとしています。また、社会的な影響力は大きくても、反社会的な性格を示していたり、社会の一般的な価値観と対立するような教えを含んでいるような教団やカルトと呼ばれる教団については、取り上げていないそうです。

著者が前書きで書いているところによると、その新宗教の教義と一般社会の乖離によって話題になる新宗教も少なくありません。前政権で連立与党となった公明党事態が新宗教である創価学会であることも、人々に新宗教への関心を高め、他の新宗教の事件、例えば長野県小諸市の神道系新宗教「紀元会」の信者による集団暴行事件の発覚し、それにともない、この教団の様々な問題が指摘されるようになりました。また最も衝撃的な新宗教の事件としては、オウム真理教によるものでしょう。1995年の前年、長野の松本市内で猛毒のサリンを撒き、多数の死傷者を出したオウムのメンバーは、この年の3月20日東京都内の地下鉄でサリンを撒き、再び多数の死者を出しました。このような宗教を背景としたテロは、2001年9月11日の同時多発テロのさきがけとなるものでした。

1999年11月には、ライフスペースの事件が起こっています。ライフスペースはもともとバブル経済の時代の自己開発セミナーの一つでしたが、次第に宗教化しました。リーダーである高橋弘二は、インドの宗教家で、オウム事件の前には日本でもブームになった、インドの宗教家サイババから「シャクティパット・グル」に指名されたと主張していました。しかし、サイババ側は、この事実を否定しています。シャクティパットは、オウムでも同名の技法が存在しましたが、ライフスペースでは頭部を手で叩く宗教的な病気治療の方法として利用していました。ところが、このシャクティパットが効力を発揮せず、高橋の信者が連れてきた男性が死亡してしまいました。しかし、高橋は死者はまだ亡くなっていないとして信者もそれを信じました。遺体は時間の経過と共にミイラ化していき、信者たちはその様子を写真などに撮り記録し続けていました。その後、ホテル側が不審な長期滞在に疑問を持ち警察に届けたところ発覚し、高橋や男性の長男などが逮捕されました。

2003年の4月から5月にかけては、白装束集団ことパナウェーブ研究所のことが大きな話題になりました。パナウェーブ研究所は、千野正法会とも呼ばれ、教祖は千野裕子という女性でした。千野はGLAの創立者高橋信次の後継者を自称していたそうですが、実際にはGLAとはまったく関係がありませんでした。千野の説く教えは、様々な宗教からの寄せ集めのようで、体系性を欠いていたと著者は書いています。ただし、共産主義を否定し反共色を打ち出したことで、一部の人たちから支持されていました。そのパナウェーブ研究所では、共産主義勢力からスカラー派という電磁波によって攻撃されていると主張しました。そのスカラー派を防ぐために、白い服やマスク、長靴などを着用していたことから白装束と呼ばれました。彼らは、日本各地を転々としていて、移動のために使われていた車にはスカラー波を防ぐための渦巻き模様を大量に貼り付けていました。実は騒動になるまで、7年間もキャラバンを続けていました。最終的に福井市に落ち着いたものの、その後、信者の大学助教授が施設内で死亡するという事件が起き、集団のメンバーが竹刀などで暴行した疑いが強まり、5名が傷害容疑で逮捕され、暴力行為法違反罪で罰金刑を受けました。リーダーの千野裕子は、当時末期がんを主張していましたが、2006年10月に死亡しているそうです。

そして2007年の5月にはエホバの証人の信者である女性が、妊娠し、帝王切開の際に大量出血したにもかかわらず、教団の教えに従って輸血を拒否したことから死亡するという出来事が起こりました。生まれた子供は無事でしたが、病院側は、死亡した本人から、輸血をしないで不測の事態が起こったとき病院側の責任は免責するという同意書を得ており、家族も本人の意思を尊重しました。また1985年には、川崎市で交通事故にあった小学校5年生の男児に対して、エホバの証人の信者だった両親が輸血を拒否し、男児が死亡するという事件が起こりました。これによってエホバの証人の輸血拒否が大きな話題になり、医学会はこの問題に苦慮するようになりました。1992年には、免責の同意書に署名していたにもかかわらず、患者の生命に危険が生じたときには輸血をするという方針で手術に臨んだ医師が、その方針を患者に説明していないまま輸血を行ったことで損害賠償を請求され、それが2000年に最高裁で認められるという事件も起こっています。彼らの信仰する神は輸血を禁じていると信じています。医師の側にとって、とくに判断が難しいのが、患者が子供の場合で、判断力の乏しい子供に対しては、親が反対しても行う方針で臨んでいる医師も少なくありません。いずれの新宗教も教祖の言うことをそのまま信じているのです。

2005年に起こった次世紀ファーム研究所をめぐる事件も、その一例で、この研究所は一種の宗教団体で、堀洋八郎という人物が代表でした。この研究所では、健康食品の販売の会社も設立し、光合堀菌という正体不明の菌をもとにした「真光元」という食品を販売していました。ところが、その施設内で、真光元を食べれば病気が治ると言われ、それを服用した糖尿病の女児が死亡するという事件が起こっています。注目されるのは、代表の堀が、創価学会の元会員である点です。堀は高校生のときに創価学会に入会し、活動していましたが、30代なかばで脱会しました。彼は、宗教団体を運営するノウハウや金の集め方、信者勧誘の方法は創価学会で学んだとしており、創価学会の名誉会長である池田大作に対しては憧れの気持ちをもっていることを告白しています。つまりは、多くの新宗教がすでに勢力を拡大している新宗教からそのノウハウを学び独自に新宗教を立ち上げるというパターンが古くから定着しているのです。

また新宗教といっても、あらゆる宗教は、最初、新宗教として社会に登場するといえます。仏教は、インドの伝統宗教、バラモン教のなかに出現した新宗教でありました。キリスト教も、ユダヤ教のなかに生まれた新宗教で、だからこそ、「聖書」のうち「旧約聖書」にかんしては、どちらの宗教においても聖典として教えの中心に位置づけられています。イスラム教の場合には、「アッラー」という独自な神を信仰し、その点では、同じ一神教でもユダヤ教やキリスト教とは異なる宗教であるように見えます。しかし、アッラーは、アラビア語で神を意味する普通名詞で、固有名詞ではありません。しかも、イスラム教の考え方では、預言者ムハンマド(マホメット)が信仰する神は、「旧約聖書」の冒頭にある「創世記」に登場するアブラハムが信仰していた神と同じだと考えられています。つまりイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同一の神を信仰する宗教であり、先行する2つの宗教の影響を強く受けています。イスラム教の聖典である「コーラン」には、ユダヤ教のモーゼもキリスト教の救世主イエスもともに登場します。その点では、イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教を生んだ宗教的な伝統の中から生まれた新宗教なのです。

そして日本では、無宗教という宗教観が多くの人の意識にあります。それは明治に入って近代化するまで「宗教」という概念がありませんでした。宗教という言葉はあっても、それは宗派の教えという意味で現在の宗教とは意味が違いました。明治に入って、宗教という概念が欧米から導入され、神道と仏教とが2つの宗教に分離されたにもかかわらず、日本人は、片方の宗教を選択できなかったため自分たちを無宗教と考えるようになったのです。

新宗教の大きな特徴は、分派が多いことと、教団同士の間に対立が起こりやすいということにあります。新宗教では教団を生んだ特定のカリスマ的教祖がいることが多く、そのカリスマ性が教団を統合しています。ところがいくら神格化されても、人間ですから寿命を全うすると、新宗教の教団にとってはもっとも大きな危機であり、それを契機に、後継者争いが起こったり、分派が生まれたりします。特に分派が生まれやすいのは、教祖が生前神懸かり(かみがかり)をし、信者に神のお告げを下していたような教団の場合です。教祖が亡くなれば、新たに神のお告げを媒介する存在が求められます。創価学会と立正佼成会、霊友会は、みな日蓮系、法華系の教団で、高度成長の時代に教団が急拡大していた時には、信者の獲得合戦で激しく対立しました。現在、それぞれの教団は、世界平和の実現を説き、平和運動に熱心ですが、強調して平和運動にあたるようなことにはなっていません。

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